命とカネ―弱者同士が闘わされる世界~磯野発言を発端として

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はじめに

 この文章はかなり煩雑で回り道の多い話になってしまうかもしれない。あらかじめ謝罪しておきたい。また、ぼく自身の知識と見識不足もあるし、独自の解釈も入ってくるから誤解や間違いもあるだろう。その節はご指摘願いたいと思う。

A.磯野真穂氏の発言について

A-1 発端

 ツイッター上のタイムラインに、ある方のツイートが表示されていた。それはBuzzFeed Japanの岩永直子氏によるインタビュー記事のリツイートで、文化人類学者の磯野真穂氏を取材した「「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命』の問題」 医療人類学者が疑問を投げかける新型コロナ対策」という記事だった。

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-isono-1

 この記事について、リツイート主は次のようなコメントを付けておられた。

<”基本的には文の主旨に同意。カネの問題VS生命の問題、と僕も思わない。カネの問題=生命の問題、というのが自由主義におけるリベラルの基本的スタンスだと思う。今回は生命の問題と生命の問題のトレードオフなのよ。 / “「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命…”>

 それに対して、ぼくはさらに次のコメントを付けてリツイートをした。

<まさにその通り。だからぼくは資本主義から脱する以外に本質的な解決は無いと思う。リベラルはしょせん資本主義の内でしか思考も行動もできない。>

 ここで(あくまでぼくの受け止め方として)貨幣論に関わる議論が少し起きたのだが、展開すると長くなってしまい、とてもツイッターでは収まらないため、申し訳ないがそこで議論を打ち切らせてもらった。
 この文章はその議論を進めるものとして書かせていただく。

A-2 「命と命」と言うが…

 ここで必要かどうかわからないが、やはり発端なので、磯野氏の見解についてぼくの思うことを書いておく。

 磯野氏の見解は概略、感染症対策は必要だがそれによって個人の自由が奪われる社会になってはいけない、そのために社会はある程度の疫学的リスクを容認するべきだ、ということだとぼくは解釈した。
 磯野氏は「医療人類学者」というユニークな肩書きで登場しているが、とは言え別に専門的な医学知識をお持ちではないようだし、まして現代の感染症対策に精通されているわけでもないようだ。もちろん、ぼくよりあるとしても。
 ぼくから見ると磯野氏の意見には極論的な部分がある。

「(前略)緊急事態宣言が発令されれば、私たちの生活の目的はこれまで以上に「コロナにかからないこと、うつさないこと」に集約され、生活のあれこれが不要不急の観点から整理される日々が続くことになるでしょう。/そうやって私たちがありふれた生活を諦め、これまでの生活の中では決して許されなかったことを許容し、遂にはその生活に慣れる時、私たちはそこで何を手放し、失うことになるのか(後略)」

 言いたいことはわかるが、果たして今回のウイルス騒動で、そこまで日本人の意識が変わるだろうか。良くも悪くもなのだが、あの9年前の東日本大震災の記憶でさえ風化し、人々は東北のことも福島のことも忘れてしまったかのようではないか。
 おそらく磯野氏とこの点は合意できると思うが、人々の意識は社会が作り出すものである。もちろんひとつのエピソードが大きく社会と意識を変えてしまうこともあるから、今回のウイルス騒動がそうならないとは言えない。しかし、このウイルスの流行はやがて落ち着くことになる。専門家はワクチンが開発されるか、集団免疫が出来るかするまでと言っている。まあ一年くらいはかかるかもしれないけれど…。いずれにせよ、もし人々が自発的に過剰な強い規制を求めるようになるのであれば、それはウイルスのせいではなく日本の社会構造と歴史性、意識・思想性に原因を求めるべきだろう。フロムが「自由からの逃走」で示したように。

 加えて、磯野氏は緊急事態宣言をちょっと過大に考えすぎていないか? 確かに政府・行政に強い権限を付与したものではあるが、諸外国と比べればかなり弱い。それでも人々に大きな萎縮効果が出るかもしれないが、そうなら、それは違うのだと正しく伝え続けることこそが言論人の役割だろう。

 ニュアンスは違っても磯野氏と似たような主張をする「リベラル」文化人は一定程度いる。たとえばジャーナリストの青木理氏も、”下(=民衆)”の側から政府に私権を制限するような権力を行使することを求めるのは健全ではない(2020/4/7″羽鳥慎一モーニングショー”)という趣旨のことを言っている。
 青木氏がストレートに政治の問題として言っているのに対し、磯野氏が主体の内面の問題として語っているという違いはあるが、方向性は似ている。また青木氏がそれでは感染拡大のリスクの方をとるべきなのかどうかを明言しないのに対し、磯野氏は潔くリスクを取る方を選択するべきと語っている。

 話は脱線するが、今回のコロナウイルス流行騒動の中で、いろいろな人の今まで見えなかった思想性が浮き出てきた。これまでいつも対立していた保守とリベラルの論者の意見が一致したり、保守と保守、リベラルとリベラルで同じような立場と思われていた人たちが対立したり、このことはぼくたちが普段無意識に振り分けていた右だの左だのというカテゴライズとは違う複雑な思想・政治的立場があることに気づかせてくれた。

 脱線ついでに戦前の左翼運動の話をすると、当時左翼内部にアナ・ボル論争というものがあった。アナはアナーキスト=無政府主義、ボルはボルシェヴィキ=マルクス・レーニン主義で、この2潮流による路線対立である。ちなみに近年ではどうもアナキズムへの評価が復活する傾向があるようだが、戦後の左翼運動はマルクス・レーニン主義が圧倒的に優勢だった。
 経験談で言えば、戦後の左翼や左派、革新、リベラルの中にも、徹底的に組織や集団行動を嫌う傾向と、強く団結した組織勢力の拡充・拡大を指向する傾向の両者が、実際にはかなり複雑に混じり合っていたと思う。単純にこれと結びつけるのは危険だが、現状では本音ベースで民衆の健康を守るために強力な社会的統制が必要だと思う人々と、統制を受けるくらいなら死んだ方がマシと思う人々が入り交じっているように見える。

 もう一つだけ脱線すると、欧米との比較というのも興味深い。個人主義が徹底しているフランスでは意外と皆が外出禁止を守っている。法律や補償の違いもあるだろが、そこも含めて個人と社会の成熟度の問題なのかもしれない。

 ぼくは「自由」の保持と拡大が、現代社会と未来社会にとって絶対的に重要だと考えているが、かといって自由がどんな場合にも免罪符になるとは思わない。あえて言えば社会のために自由が犠牲になる局面も容認すべきだとさえ思う。
 しかしそれはあくまで局面で終わらせなければならず、そのために憲法が国民の自由を保証していなければならないのである。今、この機に乗じて国民の権利を縛るための改憲論議をやろうとしている右派勢力がいるが、そんなことは断じて許してはならないと思っている。
 その上で、この問題は思想性、哲学性の問題ではなく、政治的、法制的側面で歯止めをかけるべき問題だと考える。磯野氏や青木氏の主張はやや観念論的に見えてしまう。
 磯野氏は政府の規制によって社会が死ぬと主張するが、自由を盾にとって感染を拡大させる行為が横行したら、それこそ社会の構成員同士の不信と対立が増大し、社会は存立の基盤を失うかもしれない。
 氏は「「命と経済」の話ではなく「命と命」の問題」だと指摘し、規制派と反(非)規制派「双方が「弱者」」だと分析している。だが、そうであるならトレードオフ=二者択一ではなく両者を生かすために何が成されるべきかを考えるべきで、つまりこれはどうバランスをとるかの問題のはずではないのか。氏も現状のバランスが偏っていることを次のように言っている。

「リスクが選択的に可視化され、他のリスクが見えなくなることの危険性を指摘しているわけです」

 ぼくもその意見自体に異存は無い。氏はその上で、感染者数と死者数ばかり報道され、その後の失業者の増大やそれによって被害を受ける人、亡くなる人のことが可視化されていないと述べる。しかし、それは誤りだ。多くの人はそうした経済(死)問題に注目しているし、むしろ今までのマスコミは「規制をして経済が立ちゆかなくなったらどうするんだ」というスタンスで、「ただの風邪」論者の言説を大量に垂れ流してきた。危険を訴えるメディアを袋だたきにしてきた。
 磯野氏は「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命』の問題」と言いながら、実のところこうして経済優先論者に近い主張をしているように見えてしまう。
 タバコが害なら酒も害だろうと言われればその通りである。しかし、やはり科学的、医学的に言って酒よりタバコの方が他者に対する害毒の点から言っても影響が大きく、だからより優先的に規制されるのである。汚い言葉で恐縮だがミソもクソも一緒にするのは間違いだ。

 ただ公平に見て、磯野氏の意見の基盤になっているのはおそらく次のような部分なのだろう。
 現代の医療・介護現場では、医療上の必要性から、高齢者の身体拘束や栄養管理(チューブを付けたりとか)をせざるを得ず、それがかえって寝たきり状態へと症状を悪化させている実情を指摘して、次のように述べる。

「出口の見えないまま、目先の安全・安心・効率を優先した結果の廃用症候群です。/そうやって寝たきりになった人は科学の力で確かに生きています。でもそれが「生きる」ことなのでしょうか?」

 まさにこれは医療従事者ではなく文化人類学者の問いである。
 実はぼくも昨年93歳だった母を亡くした。もちろん新型コロナウイルスではなかったが間質性肺炎だった。だから今テレビで肺炎の方や入院病棟などの画面を見るといたたまれなくなるところがある。ぼくも現実に母の拘束(医療現場では抑制と呼ぶ)や挿管による栄養補給などに直面した。
 しかしはっきり言って、母が生の尊厳を奪われたとは思っていない。医師も看護師も何をするべきか、そして何をせざるべきかを常に考え、苦悩し、決断してくれたし、ぼく自身も意見を伝え続けた。重要なことは技術があるのであれば、なにかしらの方法があるのであれば、それを利用するかどうかは、最終的に各個人の判断に任せる以外にないということだ。
 それは当然、何を「生」とし、何を「死」とするかという判断でもある。そして医療従事者の側は、そして今の状況で言えば政府や行政サイドは、死なせずに済む方法があるなら、まずそれを全力で遂行するしかないのである。

 そもそも人間の死も社会の死も、何を持って死と認定するのかは文化が決める。もちろん文化はその社会が持つものであり、また個人が持つものである。その選択権が残されねばならない。ではそれをどう担保するのか。それが法律であり憲法である。違う価値観、違う文化を併存させるために法律が存在するべきである。

 個人の自由を守るために社会全体にリスクを与えてもしかたない、それは社会を健全に保つために必要なことなのだ、という意見は、確かに傾聴に値する部分がある。しかし、社会を守ることは類的存在である人間の自分自身を守ることであり、そのために限定的に自分の自由を自粛するという選択は、近代主義の理念を否定するものでは無いと思う。むしろ押し流された結果ではなくそれを自ら決断できる人間は確立された個人であるとも言える。(いや実際にはそうじゃない奴らばかりだから心配なのだよと言うのもわかるけど…、それはそれで悲しい国なんだなと思う。真面目に言えば、そうであればやっぱり現在のコロナウイルスの対策とは別の脈略で考えるべき事柄であろう)

 話がずいぶん脱線したかもしれないが、これがぼくがこのインタビューを読んだ感想だ。

A-3 本題に戻ると

 さて、本題であるリツイート主の問題意識に即して、磯野氏の発言をどう考えるかだが。

 リツイート主はこう主張する。

<カネの問題VS生命の問題、と僕も思わない。カネの問題=生命の問題>

 これは微妙に磯野氏の問題意識とは違っている。
 磯野氏は規制強化の立場とそれに反対の立場があって、相互に対立しているという見方から、この対立が「命かカネか、どちらを取るのか」という対立ではなく”人間の生存権の対立”なのだと言っているのだと思う。
 この場合、生存権の片方は病気にかかりたくない、死にたくないという生理的な生存権であり、もう一方はカネが無かったら生きていけないという経済的生存権である。これだけなら、やっぱり「命と経済」の問題でしか無いのだが、同氏は後者は本当は経済的な問題では無く「自分の生活をお金と引き換えに明け渡」したくないという精神的、思想的立場(であるべき?)なのだと論理を転換させる。
 この辺りの論理展開が不十分なので分かりづらいというか、ちょっと強引な感じなのだが、短いインタビュー記事なので目をつぶるしか無い。

 これに対しリツイート主の意見は明快である。カネは命であり、命はカネであるというのが自由主義リベラルの、つまりは資本主義者の考え方だと断言している。だから対立点は「カネvs命」ではなく、分かりやすく言えば「命=カネvs命=カネ」というまさにトレードオフの(もしくは結局カネの問題だからカネで解決すれば対立は解消する)構造にあると主張する。
 なんにせよ、この主張は全く正しい。もちろん、資本主義者の立場で言えば、ということだが。
 そして、磯野氏の問いかけ「命vs命」「弱者vs弱者」のトレードオフという問題について、磯野氏同様、本質的な解決への道筋を示すことが出来ていないように、ぼくには見える。

B 社会主義者である私の経済の見方

B-1 貨幣・通貨=おカネとは何か?

 実はリツイート主は「貨幣は呪術」であるとも述べている。しかし貨幣は明確に「商品」=モノである。
 人類の発生をいつと考えるかは議論の分かれるところだろうが、おおよそ数十万年から数百万年前と言ってよいだろう。その長い人類の歴史の中で我々が貨幣経済を行ったのは、たかだか1万年に満たない期間でしかない。しかも貨幣経済が人類の経済活動のほとんどを支配したのは長く見積もってもわずか数百年だ。
 では人類の流通経済はどのようにして始まり、どのようなものだったのか。もちろん物々交換である。

 海の近くに暮らす人々が海産物を、山の近くに暮らす人々が木の実や果実、獣などを持ち寄ってお互いに交換した、これが流通の始まりだったろう。しかし物々交換は効率が悪い。
 ぼくが本が欲しいと思う。それで家の畑の大根を抜いて本屋に持って行く。本屋が大根を欲しいと思えば本と交換してくれる。でもいつでも本屋が大根を食べたいわけではない。そうすると交換も出来ないし、大根を抜いて運んでいった労力も無駄になる。
 そこで一定の範囲のコミュニティの中で、誰もがいずれ必ず必要になるであろうモノを交換の共通の指標として特別な商品として使うようになる。たとえばそれは塩かもしれないし米かも貝殻かもしれない。今度はぼくは塩を持って本屋に行き、塩と本を交換する。本屋は今は塩はいらないけれどその塩を受け取って、そのまま漁師の所に行く。漁師は塩を受け取って魚を渡す。結果的に本屋は本と魚を交換したことになる。

 この特別な商品=一般的商品=塩が貨幣である。
 だから本来貨幣は実質的に価値のあるモノであった。金貨、銀貨はまさにそれだ。この時点では「信用」は必要ない。貨幣というモノはそれ自体が価値を有する商品だからだ。

 ところがやがて通貨の発行権が特定の有力者に固定されるようになると、「コレ、本物の金銀じゃなくて良くね?」と思う奴が出てくる。実際の価値より低い価値の貨幣を造って流通させれば、その分その発行者の富は増えることになる。貨幣が実体的なモノから遊離し始めるのである。
 その傾向はやがて紙幣などの発明も経て加速し、ついに実体的なモノとの同一性を完全に失う。別の言い方をすれば、貨幣・通貨はモノから解放されて自由になり、ここに経済は完全で全面的な貨幣経済を完成させる。それは資本主義の完成とも言えるし、完全な金融資本主義社会の始まりと言えるかもしれない。
 ただし、これは本当につい最近のことだ。およそ50年前、アメリカ合衆国が金本位制を廃止するまで、少なくともドルは金(ゴールド)と直接結びついていた(ことになっていた)。

 とは言え、貨幣・通貨が現実のモノと分離したとしても、本質的には商品であることに変わりはなく、通貨の売買が成立する根拠でもある。

B-2 経済原則

 さて、いくら貨幣がモノから分離したと言っても、現実のヒトは現実のモノによってしか生きることが出来ない。
 では、今現在の地球上にどのくらいのモノが存在するだろうか?
 答えは少なくとも70億人以上のヒトを生かせるだけ、である。なぜなら現実に今の世界でこれだけの人が生きている以上、当然それだけのモノが存在しているはずなのである。もちろんそれは今日の話であって明日を保証するものではないが。
 とは言えこのことは大変重要なことなので、まず押さえておきたい。
 別の言い方をすれば、経済学的な数値に置き換えてしまうと、この本当の現実・実情はすぐ見えなくなってしまうから、このことに常に注意しておく必要があると言うことだ。

 ところで仮想の物々交換の世界に一人の漁師がいたとしよう。
 彼は働いて魚介をとる。そしてそれを他の人々が持つ様々なモノと交換する。
 この場合、彼はいったいどのくらいのモノを得るのだろうか。
 少なくとも漁師は自分でとった魚介を他者と交換することによって、自分が今日生きることができるだけの食料が得られなければならない。さらに彼の扶養家族が生きられる分も獲得できなくてはならない。それにプラスして必要な燃料や衣類、家屋の維持に必要なモノも得られねばならず、さらに漁に出られない日もあるだろうし、これから子供を産んで育て家族を増やすだけの余裕も必要だ。厳密に言うと少し位相が違うが、漁に使う船や銛や網なども手に入れられないといけない。
 漁師が漁師として魚を捕って暮らしていくためには、彼が働いた成果が、最低限、このように自分が生きられ、家族が生きられ、子孫を残すことが出来るだけのモノと交換できなければならない。これは絶対的な基準である。なぜなら、そうでなければ漁師という職業は成立せず、そうすると社会には必要な魚介類が供給できず、結果的に社会は衰亡してしまうしかないからである。

 しかし果たしていつでもそんな風に必要なモノが手に入るのだろうか。これは最終的にトータルとして可能になると考えるしかない。なぜなら人類の歴史が発展の歴史だったからだ。もし人間が働いて前述したような必需品を、しかもいくらかの余裕を持って得ることが出来ないなら、人類はすでに滅んでいるはずだからだ。
 このことを仮に「経済原則」と呼ぶことにしよう。

 ここでもうひとつ注目すべき点があるので一言付け加えておく。
 時間のスパンを一年間と設定して、ある閉じた共同体の中の成員がそれぞれ働き、生産物を交換しながら全員がその一年間を生きられたとする。一応そこに単純な市場原理や流動性が発生すると仮定すると、各成員が一年間働いて生み出す生産物は、それぞれおおよそ等価になると考えられる。もちろん各人の生産性の違い等によって異なる部分はあるだろうが。
 この場合、当然各成員はそれぞれに違ったコトをしてモノを作っているのでそのコトを直ちに比較することはできない。しかし唯一、一年間働いたということは共通点として認められ、ここから「労働時間」を生産されたモノの価値の共通の基準=物差しとすることができるのである。

B-3 価値と労働価値説

 ところで、モノの値段はどう決まるのだろうか。
 ここに1本100円の鉛筆があるとする。
 この鉛筆に有用性(使用価値)と価格という2つの側面があることはすぐわかる。有用性は「書くことができる」とか「使い心地」ということだ。
 価格については、よく知られているように市場原理というものがある。その商品が欲しい人が多く、相対的に商品の数が少なければその商品の価格は上がり、逆なら下がる。一方で価格が下がればその商品を買う人が増え、逆なら減る。このような需要と供給のバランスによって商品の値段は決まってくる。

 しかし、本当にそれだけだろうか。
 常識的に考えて1本の鉛筆の値段がいくらくらいかを、ぼくたちは直感的に知っている。今いくら鉛筆が欲しくても1本100万円で買うことは通常ではあり得ない。
 マルクス主義経済学では、ここに「価値」というもうひとつの概念を導入する。この文章ではこれまでかなり乱暴に「価値」という言葉を使ってきたが、厳密な意味で使おうとすると実はかなり分かりづらい概念だ。
 またあらかじめ言っておくと、商品の値段=価格は通常は「価値」を中心にしてその上下で変動しつつ、常に価値の水準に戻ろうとする傾向を持つ。

 価値を知るために鉛筆を細かく観察してみる。

 この鉛筆の100円という値段の中には何がはいっているのだろうか。
 まず文房具屋の儲け分が入っている。この場合、文房具屋の「儲け」には当然前節で明らかにした「経済原則」が貫かれている。文房具屋が(個別的にはともかく)社会的、一般的に存立するためには、ここに彼と彼の家族が生きていくことができ、商売が続けられるだけの利益が含まれていなければならない。
 さらにこの100円には運送費も含まれているだろうし、当たり前だが工場で生産に携わる人の給料も、原材料の木材を切り出してくる人の取り分も入っている。わかりやすく言えば1本の鉛筆に様々なコストが集積されていると言えるわけだが、いずれにも経済原則が成立しているはずで、そうでなければ鉛筆という商品は社会的に成立しない。

 もちろんここに市場原理の力が加わるし、また商品の生産と流通の各段階でより多く儲けようとする動きも加わるから、それらは常に変動する。しかし社会が現に成立している以上、すべての経済活動において経済原則が最終的にはトータルとして成り立っているはずである。

 さて、価値とは何かをもう少し細かく見てみる。
 たとえば鉛筆の原材料の木材。鉛筆1本分の材料費が20円だったとしよう。
 ただ山に木が生えているだけではそれは材料にならないし、だから価値も存在しない。誰かが木を切って運び出して製材するコトによって初めて20円の価値が発生する。
 この「コト」とは、つまり人間の労働=労働力である。
 だがよく考えてみると、材木に価値を与えるためにには、たとえばノコギリというモノやトラックや燃料というモノが必要となる。そもそもこの木が植林されたものなら、そこにも初めからコストがかかっている。一見すると20円の中には労働力以外のモノの値段も入っているように見える。
 しかし、それをさらに細かく見ていけば、ノコギリの価値はそれを作った人の労働力と鉄や燃料などの材料のコストから成り立っていて、さらにその鉄や燃料などの価値はそれを掘り出して加工した人の労働力から成り立っていることが分かる。
 つまり究極のところまで見ていけば、商品の価値は、自然物という原初的には経済的に無価値のモノに、労働力を使って付与されたものであって、まさに丸々労働力そのものと言うことが出来るのである。価値の源泉が労働力であることを、ここでは「労働価値説」と呼びたいと思う。

 つまりひとつの商品は価値の集積体であり、その実体は人間の労働力そのものと考えられる。そしてその価値の大きさは経済原則によって規定される。

 細かい分析は省くが、繰り返すと、もし資本主義経済がノーマルに機能し、単純に市場経済によって自動的にコントロールされているのなら、価格は常に変動しつつ、常に価値に接近しようとする。
 ところが現実の資本主義はそのようにはならなかった。資本主義の初めにはこうした「神の見えざる手」が働いたこともあったろうが、そこには落とし穴があったのである。少なくともそのひとつが「恐慌」の循環的発生だ。恐慌についてここで触れる余裕はないが、資本家階級は恐慌を押さえるために「神」に代わって経済を自分の手でコントロールしようとするようになる。その結果、資本主義は歪んだシステムに変貌していくのであるが、その詳細はまた別の機会に譲る。

C 資本主義の限界

C-1 簡単なまとめ

 このままでは話しがダラダラ続くだけなので、結論的な話に移りたい。
 ひと先ず、ここまでのまとめとしては、商品=生産物の価値は労働者の労働によって与えられたものであり、その大きさは経済原則によって決まってくる。経済原則が成立しないと人々は生きていけないし、社会も崩壊する。
 また労働自体は直接比較できないが、労働時間を物差しにすることが出来る。
 貨幣は本質的に商品であって本来はそれ自体の価値を持っていたのだが、貨幣経済の発展の過程でモノから切り離されてしまった、というようなことだろうか。
 ここでひとつ補足しておくと貨幣がモノから切り離されてしまうということは、同時に労働と価値から切り離されてしまうということでもある。リツイート主の「貨幣は呪術」と言う問題は、おそらくここに由来する。おカネに名前は書いてないとよく言われるが、このようにカネを介在することによって、人間の生命活動そのものである労働によって生み出された価値と商品との間が切り離され、それは本来労働者の生産物であるはずの商品とその価値が労働者から奪われるということも意味する。
 もし労働者の労働が商品に正しく反映されるなら、そして貨幣が商品と労働の価値を正しく反映するなら、社会の成員は社会生活において基本的に生きていけるはずである。そして、価値を生んだ者にまずその価値と同等の分配が行われるなら、大きな貧富の差は生まれないはずでもある。
 しかし、資本主義は構造的にこうした関係を歪ませざるを得ず、結果として大きな貧富の差を作ってしまう。つまり労働者の生み出した価値がどこかに(それはようするに「資本」と「資本家」にだが)奪われる構造になっているのである。

 もちろん資本主義の全体像の説明は、触れていないことの方が多いこの文章ではとうてい不十分である。資本と労働の関係(有名な搾取の問題等)とか、生産手段の私有化・共有化とか、重要な問題はまだ沢山残っている。そのためこの文章はかなり乱暴な展開になってしまっていて、それはぼくの力量不足なのだが、とりあえず言いたいことは以上のようなことである。

 資本主義は完全な貨幣経済として完成し、それは自律的な経済システムである。だが一方それは人間が作り出したシステムであるにも関わらず、人間にコントロールすることの出来ない暴走機関車のようなものになってしまった。
 とりわけ金融資本主義ではカネが実体であるモノと完全に遊離してしまい、何がどうなっているのか誰にもわからないという事態にまで至っている。

C-2 再度冒頭へ

 もう一度冒頭の磯野真穂氏の記事に戻ろう。

 本当なら、磯野氏の文化人類学的問題意識に踏み込むために、資本主義が世の中にあるあらゆるモノとコトを全て商品化してしまい、その結果人間も商品化されて他の人間と分断されてしまうという「疎外論」や、おカネが世界の全てを支配するようになる理由を分析する「物象化論」のような哲学的分野の話しをしなければならないが、今はそれも省略しよう。

 そのような不十分な論議の中ではあるが、カネと命と人々の対立の問題についてもう一度考察したい。
 普通に考えれば、カネと命は別のことである。そもそも人類は長いことおカネを持っていなかった。そしてまた普通に考えれば、カネより命が大切であると思う人が多いと思う。
 一番の問題はこうした「普通」の感覚が資本主義社会では通用しないということなのだ。もちろん資本主義以前の社会が今より暮らしよかったと言いたいわけではない。そもそも生産性の低い社会では常に命の瀬戸際で生きていた人も多いだろう。
 しかし前述したように、現代の社会では少なくとも皆が生きて行くだけのモノが、実体として存在していることは間違いない。それが必要な人に分配されず、必要ないはずの人に余計に分配されてしまっているのだ。その原因のひとつは、労働によって正当に分配されるはずの価値が、まさにおカネの「呪術」の力(労働からの切り離し)によって、どこか別の所に密かに奪われているのに見えなくなっているからだと言える(もちろん細かく論じるなら、扶養の問題とか、そもそも社会とは何か、現代日本社会における労働とは何かというような問題も論じなければならないだろうが)。

 もうひとつ考えなくてはならないのは、磯野氏がこの問題が「弱者vs弱者」の対立になっていると指摘している点である。
 経済的弱者が生き延びるために健康弱者にリスクを負わせる構造。しかし、なぜ弱者は弱者なのだろうか。
 確かに肉体的な健康弱者は必然的に生じるものだろう。少なくとも加齢は誰にだってやってくる。また社会の中では、とりわけ資本主義経済の中では貧富の差も当然出てくるだろう。しかしなぜ彼らは「弱者」であらねばならないのか。
 それは弱者が政治的弱者になってしまうからではないのか。

 近代主義思想の基本理念はフランス革命のスローガンに象徴される。あの「自由、平等、友愛(博愛)」だ。
 そこから民主主義国家と資本主義経済が誕生した。民主主義国家は国民主権であり、本来は平等な人民が共同で政治の主導者の役割を果たす仕組みになっているはずだ。人民(国民)が自分の代理を自ら選んで自主的に自らの権力を委任して政治を行っているはずだ。本当にそうなら政治的弱者の生まれようはずがない。
 しかし一方の資本主義は労働力=価値をすべて貨幣=カネに変換することによって、社会的な力をおカネという形で集積することになった。ここで「カネは力」になったのである。だからよりカネを集めた者がより多くの労働力を獲得していることになり、社会的力を一手に握る形になる。腕力が支配する世界では腕力が権力であったろうが、現代社会の権力はカネなのである。
 だから経済的貧困層は弱者になってしまう。

(もっとも、健康弱者については、結果的にその多くが経済弱者に落ち込んでいく可能性があるにせよ、経済的な強者でありながら健康弱者の人もたくさんいるだろう。今回のコロナウイルス騒動でそれがどういう位置関係にあり、どういう意味を持っているのかまでは論じきれない。それとこの経済弱者=政治弱者という関係は資本主義に限らず歴史的、文化的に常に普遍的な事象のようにも見えるが、その点の議論も今はできない)

 民主主義は当然政治的平等が原則であるが、一方の資本主義経済は競争=奪い合いによって常に必ず勝者と敗者を作る。この両者が別の原理として並立するなら問題はまだ小さい。しかしおカネが権力となる社会構造では、民主主義の原理は資本主義に蹂躙されざるを得ないのである。

C-3 最後に

 残念ながら、今現在の新型コロナウイルスの流行とその対策を考える上では、いかにここで何を論じても、結局は経済的弱者に対する経済的補償の徹底以外の方策は無い。思想的・理念的な規制反対論は、結果的に経済的弱者を切り捨てる経済優先論の援護射撃で終わってしまう危険性をはらんでいる。

 しかし、それがこの問題の本質的解決ではないことも事実だ。本質的問題は貧富の差の根絶とは言わないまでも、政治的弱者を生み出す社会構造の抜本的改革にしかない。
 その問題意識から社会の構造を経済システムから変えなければならないと考えるのが、社会主義(共産主義)革命論の起点である。
 それはもちろん近代=資本主義の否定であるが、当然ながら前時代への逆行を志向するものでは無い。近代の資本主義と民主主義が成し遂げたこと、様々な成果を受け継ぎ、それを発展的に解消していくことで資本主義を乗り越えていこうとする運動だ。

 歴史の教科書を開けば人類の歴史が様々な経済的・政治的時代の変遷であったことがわかる。ここでは経済と政治の関係については触れないが、なんにせよ時代は必ず変わっていくのである。ぼくたちはこの時代に生まれ、この時代に生きてきたから、この時代が永遠に続くと錯覚しがちだ。おそらく古墳時代の人も封建時代の人もその時代のシステム・ルールが無くなるとは思っていなかったろう。
 しかし、必ず時代は変わる。それが人類の宿命なのだとも言える。

 社会主義者の弱点は、じゃあ次の時代はどんな経済、どんな社会になるんだと訊かれても明確に答えられないことである。
 誰であれ、未来のことを予言できる人はいない。カール・マルクスは共産主義の親玉みたいに言われているが、彼も彼が生きた時代の分析をしただけで、未来の予言をしたわけではない。
 ただその現代社会の分析を通じて、どこに根本的な問題があるのかを考え、それをとりのぞくことを考えていくしかない。重要な点は、部分的な改良では済まない抜本的、本質的問題をあぶり出し、だから改革では無く「革命」でしか実現できないところにまで到達できるか否かである。
 それがたとえば、おカネという問題を考えた結果、貨幣を介さず労働者が生んだ価値がそのまま労働者に還元されれば良いという論議になるのだが、もちろんこれは理想型を図式的に言っているだけであって、実際の経済システムのデザインは、正直、革命を遂行しながら試行錯誤で作っていくしか無いのではないかと思う。

 20世紀のレーニン主義からスターリン主義にいたる勢力は、現実の政治環境の制約を受けていたとは言え、社会主義革命を標榜しながら実際には時代を逆行させるような非民主主義的政治体制と無理なデザインの経済システムの強制的な導入を図った。そして結局ただの前時代的圧政国家に成り下がってしまった。
 その結果、マルクス主義は没落し、「革命」は禁句となった。
 だがしかし、その間に資本主義がより良く発展したわけでも無い。むしろ資本主義もまた時代逆行の波に流され、世界は再び19世紀的様相を示すようになった。この流れを再逆転させて近代を発展的に解消し、次の時代を生み出していく闘いが求められているし、それは必ず起こると、ぼくは信じている。

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