朝日・川本裕司記者のモーニングショー攻撃を考える

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 朝日新聞で主にテレビメディア論を中心に記事を書いている川本裕司・社会部記者が、雑誌「論座」のサイトに書いた記事が同サイトやツイッター上で炎上状態になっている。
 これは、

コロナ報道におけるテレビ朝日・玉川徹コメンテーターへの疑問/生命に関わる問題があぶり出したよろずコメンテーターの限界

 という2020年4月20日付けの記事で、内容はテレビ朝日の朝のニュース・情報番組「羽鳥慎一モーニングショー」における、玉川徹コメンテーターの発言が一貫していないという批判である。
 ぼくはすでにツイッターでこの問題に触れたのだが、ここでは少し詳細に論じたい。

テレビのコメントに疑問を投げかける川本氏

 まず公平に言って文脈だけから見れば、川本氏の主張は、テレビのニュース・情報番組一般について、命に関わる問題に対し「知見を持たないコメンテーターが、自信をもって発言するのはそもそも無理がある」、「よろず屋のような役割を担わされ」たコメンテーターが「テレビの作法や芸」として「反射神経のコメント」をするのはよくない、と言うことになろう。
 これにはぼくも強く賛同する。有象無象の「文化人」がテレビ、新聞、雑誌、ネットメディアにおいて、いい加減で、無責任で、論理的・科学的根拠の無いトンデモ発言をどれほど垂れ流しているか、そしてそれがコロナ禍をより混沌とさせ感染拡大を阻害しているか、腹立たしいほどである。

記事の本当の狙いは何か

 しかし、川本氏の記事の本当の主眼はそこにはない。
 「出演者個人の問題ではなく」「玉川氏が他番組のコメンテーターよりも問題があると判断したわけ」でもないと断ってはいるが、この記事は明らかにモーニングショーと玉川徹氏を標的にして攻撃することを意図したものと言わざるを得ない。ろくでもない番組やコメンテーターは数多あるのに、COVIT-19流行の初期から政府に名指しで攻撃されているこの番組とコメンテーターをわざわざ選んでいるのだ。そこには少なくとも何らかの理由と目的がある。まさしく記事の大半は玉川氏批判なのである。
 記事によれば、安倍首相から7都府県に緊急事態宣言が出された翌日くらいの同番組で、ジャーナリストの田崎史郎氏が(なぜかこの部分について川本氏ははっきり書いていないのだが)政府の方針として企業への休業要請を「『2週間の様子を見てから』」行うと解説したのに対し、玉川氏は「『旧日本軍がやって大失敗した戦力の逐次投入をやろうとしている。投入できるものは一気に投入する。閉めてくださいという要請には(ママ)一気にお願いする』」べきだと主張した。
 しかし玉川氏は、その数日前に「コロナ問題で減収に見舞われた人たちの救済策として」「『スピードを優先させまず現金を配る。足りなければまた配ればいい。それを繰り返せばいい』」と述べており、これは前述の主張と「違う理屈」になっており「論理の一貫性の欠如を露呈させて」いる、というのが、いわばこの記事の肝の部分である。
 さらに記事はこのことを「これでは安倍政権を批判するためならどんな理屈をつけても構わない、と受け止められても仕方がない」「発言の信頼性に関わるような変わり身」とまで断罪する。
 また玉川氏はよく「『この件については以前取材したことがある』」と言うのに、COVIT-19についてはそう言ったことがなく、だから「感染症については取材した経験がないのだろう」と川本氏は<推察>する。

川本氏の記事の誤りと詭弁

 しかしCOVIT-19はやっと昨年末に発見された感染症であって、その取材をしていないのは当然のこと。だから玉川氏がそんなことを言うはずがないのである。ただこの番組を以前から見ていればよく分かるが、玉川氏は(失礼を承知で言えば)感染症恐怖症であり、健康オタクでもあって、医療関係の取材経験も豊富だ。川本氏の同記事の内容や氏の経歴を見れば、玉川氏のこうした立ち位置を知っていてもおかしくないし、その上であえてこのような書き方をしているのであれば悪意さえ感じてしまう。
 ちなみにインフルエンザ予防の心構えについて、玉川氏が毎シーズン、曜日コメンテーターの長嶋一茂氏と掛け合いのような論争をするのは名物にもなっている。もうひとつ脱線すれば玉川氏も川本氏も同じ京都大学の出身で、玉川氏は理系の農学部、川本氏は専門はわからないが教育学部だそうだ。
 さてしかし一番の問題は、果たして川本氏が言うように玉川氏の論理が破綻しているのかどうかである。本当にコメントはその場その場の「反射神経のコメント」で一貫性が無いのだろうか。
 おもしろいことに、炎上コメントの傾向として、川本氏の主張に賛成する人たちはあまりこのことに触れていない。一方、川本氏を批判する人たちの多くが玉川氏のコメントに矛盾は無いと指摘している。
 確かにその通りで、「一気に投入」と言うのは、疫学的対応において出来ることは一気にやらないと上手くいかないと主張しているのであって、一方の「足りなければまた配ればいい」と言うのは、記事に即して言えば「コロナ問題で減収に見舞われた人たちの救済策として」、つまり経済対策の脈略での発言である。
 朝日新聞では「ご飯論法」として安倍総理の国会答弁を批判してきたが、川本氏の論理展開はそれ以下のただの詭弁でしか無い。違う問題設定についての発言を同じまな板にのせて批判しているのである。たとえて言えば、「人は誰しも自由に行動する権利がある」と主張する人が「誰であれ人を殺してはならない」と言った時、殺人者も同じ人間なのだから彼の殺人という自由を否定するのは矛盾していると非難するようなものだ。確かにごく一部の人は殺人の自由を肯定するかもしれない。しかしそれは論理の一貫性かどうかの問題では無く思想性の問題である。そして実際のところ、川本氏のこの記事も本質的には思想性、というより政治性によって無理矢理ねじまげた論理で書かれていると考えられるのである。

それが経済対策で無いとしても

 そのことはすぐに論じるが、その前にしかし、一応考察しておくべき点がある。それは、玉川氏の「足りなければまた配ればいい」論は本当に経済対策への言及と捉えて良いのかという点だ。そしてもしこれが疫学的対応に関するコメントだった場合、それは結局論理の矛盾となるのかどうかである。
 玉川氏はこの番組の中で一貫して補償金ないし支援金の即時一括給付を主張している。それは今回のコロナ禍で減収した人への生活保障と言う意味の他に、企業活動に対して補償が無ければ自粛は進まないという考えもある。(なお、この二つの側面、および経済の落ち込みに対する底上げ政策を加えれば三つの側面になるが、これらは一般的になかなか区別して論じられることが無く、そこがひとつの混乱の原因なのだが、今はその議論は置いておく。)
 ただし正確を期せば、玉川氏は少なくとも当初は企業の利益への補填は出来ない、個人の生活保障のために迅速に広範囲に給付すべきだとの意見であった。
 しかしもし企業活動の自粛=感染拡大阻止という論理で給付金が必要だとなれば、これは疫学的対応の一環とも言える。それではここで「足りなければまた配ればいい」と言ったら戦力の逐次投入論になってしまうのだろうか。ぼくはそうは思わない。話の脈略から言って玉川氏は別に10万円の給付を求めたわけでは無い。というより出し惜しみせず出せるだけ政府はカネを出せ、そのためには赤字国債の発行もやむなしというのがその主張だった。とにかく今可能な限りで一番早く出せるだけの給付をして、それでは当然足りなくなるから第二弾、第三弾でどんどん給付せよと言うのが「足りなければまた配ればいい」というコメントの真意だった。
 このことは自粛要請の議論の際でも、出し惜しみせず「一気に投入」するべきという主旨となんら矛盾しないし、ようするに同じ事を言っているのである。もちろん玉川氏とて「一気に投入」と言っても物理的に不可能なことまで求めているのでは無い。
 以上のように川本氏の「論理の一貫性の欠如」論はたんなる言いがかり、難癖でしか無い。申し訳ないが小中学生レベルの詭弁と言うしかない。

川本氏の言う「確かな助言」とは

 川本氏は「視聴者が求めているのは」「知識に基づいた確かな助言のはず」と主張する。その点に異論は無いが、それでは「確かな助言」とは一体何なのだろう。ぼくはまさに羽鳥慎一モーニングショーこそ、それを提供してきた番組だと思っている。視聴者の中には田崎史郎氏の出演を快く思わない人もいるようだが、ぼくはそれも含めて多角的・立体的に「知識に基づいた確かな助言」が浮き上がってくるように見える。
 だが川本氏は否定的だ。では川本氏にとって「知識に基づいた確かな助言」はどこにあるのか。実は「論座」のサイトには川本氏の次の記事も掲載されている。

日本でコロナによる死者が少ない理由を解明したNスペ

 これはNHK総合テレビで4月11日に放送された「NHKスペシャル/新型コロナウイルス/瀬戸際の攻防」という番組の視聴評である。ぼくは見ていないが、記事によると厚労省クラスター対策班に密着取材したドキュメンタリーで、政府の専門家会議の押谷仁教授とクラスター班の西浦博教授に焦点を当てた構成だったらしい。
 記事の概略は番組自体の評価と言うより、「検査が不十分という批判を受けながら死者が少ない日本の感染の実情を解き明かし」、「危機管理の専門家」の「指摘するのとは違い」「なるべく多く検査して感染者を発見し重症化を防ぐという海外の対策と異なり、クラスターつぶしで重症患者を出さないようにするという日本の対処の独自性」を称賛。
 そして「押谷教授は、病院でPCR検査を増やすのは感染者を拡大させる恐れがあるとして否定的だった。同時に、社会経済生活をなるべく維持しながら感染拡大を阻止する道を選択した」と、その判断を高く評価。
 「情報番組などのコメンテーターの強い口調での警告や激論が空回りしているのではと思えるように、押谷教授と西浦教授は静かなたたずまいで落ち着いた口ぶり」で、都市封鎖の「中国・武漢や欧米」、情報公開の「韓国とは違う手法で立ち向かって」いると持ち上げる。
 最後に今後のNスペには「日本でもお手本にすべきだという声が多いCDC(米疾病対策センター)がありながら、米国で最大の死者を出したのかという検証にも期待」しているのだそうだ。

何の見識も無い提灯記事

 実に番組自体にも、専門家会議やクラスター対策班に対しても一切の批判は無い。記者独自の視点からの指摘も無い。ただただ日本の対策は素晴らしい、成功だと称賛と賛美のオンパレードだ。何も知らずに読んだらNHKの番宣素材だと勘違いしてしまいそうだ。これが新聞記者の書く番組評なのだろうか。
 まあ、それはともかく、つまりこの記事もまた番組評論が目的なのでは無く、本当の狙いは安倍政権のコロナ対策は全面的に正しい、世界のどこよりも素晴らしいと宣伝することにあるのである。こういうのを世間では提灯記事と呼ぶ。
 「いま、コロナ問題を取り上げるニュース・情報番組のコメンテーターやキャスターは、政府の施策に対して思い思いの意見を述べるか、政府・自治体に成り代わるかのように『家にいましょう』と呼びかけるか、だ」などとよく書けたものだ。自分が思いっきり政府に成り代わっているではないか。こう言っては何だが、今や安倍総理の提灯持ちなどと揶揄される田崎史郎氏でさえ、ところどころで安倍首相に鋭い突っ込みを入れることがある。たとえそれが演出・芸であったとしてもだ。テクニックの話をするのも場違いだが、そうやって少しの批判を混ぜるから話に重みや信憑性が増すのである。それと比べると川本氏の記事は下の下と言わざるを得ない。
 こうやって眺めると川本氏がなぜモーニングショーと玉川氏を批判するのかが分かってくる。川本氏は「これでは安倍政権を批判するためならどんな理屈をつけても構わない(姿勢)」だとして玉川氏を攻めるが、それは実は真逆であって、安倍政権の政策を批判する者を貶めるためなら、どんな理屈をつけてもかまわないというのが川本氏の姿勢なのである。
 だが彼には見識が無い。玉川氏の疫学的対策の提言に対して正面から反論する力が無い。だから無理矢理な詭弁を使ってなんとか玉川氏を否定しようとしたのである。それが証拠に、玉川氏が「岡田晴恵・白鴎大教授(感染症学)の主張と同じ立場」と認めつつ、その岡田教授の発言には何も反論しないのだ。押谷氏、西浦氏の手法が全面的に正しいと主張するのなら岡田氏を批判するのが当然だが、川本氏にはそれが出来ない。

最後に

 新型コロナウイルスの流行はもはや日本の医療を崩壊させる直前にまで来た。誰の目にも政府のクラスター潰しの戦略が失敗したことが明らかになった。なぜなら、クラスター潰し戦略は感染のピークの山を小さくして時間稼ぎをし、その間に体制を整えて医療崩壊を防ぐというものだったのだから。
 専門家会議の四日間待機ルールも批判の的になっている。そうしたらなんと専門家会議のメンバーや医師会の会長らが「四日間待てとは言ってない、それは誤解だ」などと逃げ始めた。
 そもそも政府の緊急事態宣言後に2週間様子を見るという方針だって、小池都知事に押し切られて早まったが、結果を見れば歴然で、やはり早い自粛要請が必要だったことが明白である。PCR検査の拡充も(少なくも口先だけは)進めていくと政府が言わざるを得ない状況が作られてきた。
 つまり、結果論かもしれないが、結局、モーニングショーで岡田教授や玉川コメンテーターが警告し提言してきたことが、どんどん現実になってきているのだ。それが事実である。
 川本氏がジャーナリストとして何を賭けているか知らない。しかし、羽鳥慎一氏も玉川徹氏もコロナ騒動が収まった後でどんな批判を受けてもかまわない、だが今言わなければならないと確信することを伝えるのが自分たちの使命だと、覚悟を持って番組を続けている。岡田教授も不休でテレビに出続け、しかも公然と政府の専門家会議メンバーに「生データを出せ」「エビデンスを示せ」と迫っている。彼女の立場からしたら大きな代償を払わざるを得ない行動である。正直言って、ぼくの政治的・思想的立場は彼らの側には無いし、必ずしも彼らの主張が全て正しいとも思わないが、しかしこれだけは確信している。このような覚悟と気迫を持った人々に川本氏の提灯記事が勝てるわけは無い。
 表現の自由があるのだから、何を書き、何を主張し、何を批判しても良いだろう。しかし結果が、歴史が最後は判定を下してくれるはずである。

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【緊急】日本政府の新型コロナウイルス対策に関する論点のまとめ

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 日本の新型コロナウイルス対策について、なぜか国内がまとまらない。本来はこの非常事態にそんなことをやっている場合では無いはずなのに。
 首相のリビングでくつろぐ動画投稿とか、有名人の首相擁護要請発言の続発とか、それぞれ問題ではあるが、ここでは問題の核心を抽出して考えてみたい。
 問題の核心部分はそんなに多くない。

1.自由

 第一の問題は「自由」を巡る対立。
 これには思想的な対立と、政治的対立があり、政治的対立はさらに経済分野と統治分野に分けて考えることが出来る。

1-a. 思想的対立

 これは、感染拡大を防ぐために国民に行動制限を求める動きに対して、リバタリアンや一部のアナキストなどに代表される「自由絶対主義」者が反発している問題。この層の人たちは何より自由であることが優先され、いかなる自由への束縛も否定する。極端に言うと「地球が滅びようと自由にやる」という立場。
 これは思想の立脚点の違いなので解決は不能だ。ただ絶対数は少ないと思われる。それでも今回の感染症流行の中では予想以上に声が大きいことも事実。

1-b-1 政治(経済)的対立

 1-aのような原理主義的反対ではなく、経済的補償が無いと仕事を止められないから行動規制に従うことができないという立場。これは3の「補償」の問題と同一の問題なので、そちらが解決すれば解消する
 蛇足的に付け加えると、国民に対する経済補償を原則的にやらない方針の政権は、それと一体で経済活動の制限に消極的立場であるが、他方で通常は自由を優先することを主張する反自民党勢力が、この問題では逆に補償した上で国民に行動制限させるべきという、一見逆の主張をしている。

1-b-2 政治(統治)的対立

 今回の感染症流行を政治利用しようとする勢力の問題。
 政権は現状では経済活動の制限に消極的である一方、緊急事態に国が国民の権利を強権的に制限できるよう憲法を改正するべきとの姿勢も示している。全くの矛盾した態度で理屈が通らない。
 たんに事態を政治的に利用して改憲に繋げようとするだけの策謀であり、現状での緊急性は全く無い。従っていたずらに混乱を引き起こすこのような動きはただちに停止して良いし、停止すべきで、停止するしかない。

1-c 無自覚・無関心者の問題

 自由を巡る問題ではもうひとつ、対立と言うことさえ出来ないが、ウイルス感染拡大予防に無自覚であったり無関心、もしくは関心が薄い、理解が足りなかったりする人々の存在を無視することは出来ない。
 こうした層が多いと、対立以前にどのような訴えかけをしても行動制限に結びつかない。
 この問題への対処は、残念ながら何らかの方法で周知を徹底するか、強制力を持った取り締まりをするかの二択しかない。

2.検査

 世界の国々の一般的対応として、出来る限りウイルス感染の検査を広げ、検査数を増やしている。WHOもその立場だ。しかし、日本政府だけは検査の絞り込み政策をとり、見かけ上の感染者数を少なく見せる策略では無いかと内外から批判された。
 この検査数の問題も二つから三つに分けて考えられる。

2-a 技術的問題

 ひとつは技術的問題。実際上、検査を広げたくても広げられない技術的問題が存在する。
 検査場所、機器・装備、技師の不足、感染者受け入れ施設や医療従事者の不足などである。
 ただ、この問題は物理的に必要機材を増産したり、民間事業者を利用したり、発熱外来と軽症者隔離施設を設置したりすることによって、対応することは不可能では無い

2-b 原因不明問題

 技術的問題は技術的レベルで解決、もしくは納得することの出来る問題のはずだが、実際にはその議論が混沌としている。
 それは政府が検査の問題についてほとんど説明をしていないからだ。
 政府は表向き検査の制限をしているわけではないと言いつつ、検査が少ない理由にはっきりした説明をしていない。政府が本当のところどのような政治的方針を持っているのか、もしくは技術的限界があるのか、明らかにしない限り混乱は収められない
 なお、当初はオリンピック開催に支障をきたすために隠蔽をはかったのではないか、パニックが起きたり政府批判が激しくなるのを恐れて現在も隠蔽しているのではないかなどと考えている人は多い。

2-c-1 検査制限論(技術的規定論)

 一方でかなり大きな勢力として、あえて検査をするべきでないという論陣が張られている。
 これにはまず、検査の体制が脆弱なので検査数が増えると必要な検査まで滞ってしまう、または検査を求める人が殺到して医療現場が対応できなくなるという意見がある。
 さらに現在の検査技術では陽性を確実に判定することが出来ず、偽陽性者が病院を圧迫する一方、検査をすり抜けた人がかえって感染を拡大させる可能性が高いとする。

2-c-2 検査制限論(不可能論)

 また、そもそも感染者が病院に来て検査をすると医師を含めた院内感染の危険が高まる、感染者が増えると入院が増え医療崩壊するといった本末転倒的(とは言え、医療現場ではリアルに切実な)主張がある。
 これらふたつの検査制限論は、技術的対応が可能になれば、解消する問題と言える。

2-c-3 検査不要論

 有識者や政治家の中には内外問わず、経済活動を停止すると経済が崩壊するので、行動制限を求めず、感染者を抽出・隔離などせず、症状の重くなった患者のみ治療すれば良いという考え方もある。極度の経済重視論と言える。
 この場合は一度感染すると人体に抗体が作られ以後は再感染しないのだから、むしろ社会に感染を蔓延させ集団免疫を作る方が合理的だと主張することが多い。
 上記の根拠は、今回流行している新型コロナウイルスは、軽症率が高く、致死率もインフルエンザ並みというところにあるが、実際のところはまだまだ不明な点も多くて異論もある上、回復した患者が再発する事例もあり、感染者にどの程度の免疫がつくのかわからない。
 従って現状では根拠薄弱の暴論であると言うしかない。

3.補償

 コロナウイルス流行の結果、経済的に不利益を受け、困窮する人々が増えている。補償の問題は単なる経済対策では無く、感染予防策の要でもある。
 しかし、はじめに一点だけ指摘しておくと、補償問題を複雑にしているのはこの辺の政策の曖昧さである。それが補填・補償なのか、景気浮揚・刺激策なのかはっきりしない。 しっかり目的と根拠を示して、何を獲得目標とするのかを明示しなければ、その効果もあがるはずがない。

3-a 個人への生活保証

 さて、憲法の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の規定によって、個人の生活は感染症とは関係なく保証されている。ところがこれまでは最低限度の生活が送れない人々の相対的な人数が少なかったため、社会的に無視や差別的言説が一定程度あり、人々の関心が薄かった部分がある。
 ところが感染症流行を受けて、最低限度の生活が出来なくなる人の数が急激に増えると考えられ、この層への生活補償の問題が可視化されてくると思われる。
 現状では、子育て世帯への一時金支給とその増額などが決まっているが、今後さらに個人への生活保証をどう確保するかが激しい議論になるだろう。

3-b-1 営業利益の補償

 個人への補償よりも面倒な議論が、経済活動の縮小や制限に関わる補償の問題である。現状において国は原則的に補償をしない方針だ。
 この場合、二つの問題がある。ひとつは経済全体の落ち込みによる一般的な利益の減少を補填するかどうか。これは個人の生活保証とも関連するので、雇用保険・失業給付制度などを含めた総合的な政策が必要となるのは必然である。
 国は固定資産税の減免などに言及し始めている。

3-b-2 自粛損失の補償

 感染症予防対策として最も争点となるのは、経済活動自粛要請に対応した補償の問題だ。
 論理としてははっきりしている。営業を休止させるなら、その分の損失を補填すべきで、そうでなければ営業を続けざるを得なくなる。これほど明白なことはないのだが、政府の政策は自粛要請はするが補償はしないという矛盾したものになっている。
 このことがさらに混乱を引き起こすのは、国が根拠を示さないからである。
 補償をしたくないのか、出来ないのか。出来ないのであれば、どのような試算を根拠に出来ないというのか。また、したくないのであれば、それはどのような政治的理由があるのか。
 このようなことを政府=総理大臣は全く明らかにしない。それが示されないから誰も納得できない。
 明らかにしない理由自体もわからないが、ただ現実にアベノミクスが実は大失敗していて、諸外国並みの補償をすると日本経済が大きく没落してしまうと政府自身が考えている可能性はある。そのため政治責任を追求されないよう何も語らないのかもしれない。
 いずれにせよ、この問題の解決は、国民の多数が納得できる補償を行うか、補償が出来ない理由を明らかにした上で政治責任を取って辞任することを表明し、国民に納得してもらうか、どちらかしかないだろう。(もちろん辞任に当たってはこの時期に政治的混乱と空白が出来ないよう、最新の注意を払う必要があるが)

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命とカネ―弱者同士が闘わされる世界~磯野発言を発端として

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はじめに

 この文章はかなり煩雑で回り道の多い話になってしまうかもしれない。あらかじめ謝罪しておきたい。また、ぼく自身の知識と見識不足もあるし、独自の解釈も入ってくるから誤解や間違いもあるだろう。その節はご指摘願いたいと思う。

A.磯野真穂氏の発言について

A-1 発端

 ツイッター上のタイムラインに、ある方のツイートが表示されていた。それはBuzzFeed Japanの岩永直子氏によるインタビュー記事のリツイートで、文化人類学者の磯野真穂氏を取材した「「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命』の問題」 医療人類学者が疑問を投げかける新型コロナ対策」という記事だった。

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-isono-1

 この記事について、リツイート主は次のようなコメントを付けておられた。

<”基本的には文の主旨に同意。カネの問題VS生命の問題、と僕も思わない。カネの問題=生命の問題、というのが自由主義におけるリベラルの基本的スタンスだと思う。今回は生命の問題と生命の問題のトレードオフなのよ。 / “「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命…”>

 それに対して、ぼくはさらに次のコメントを付けてリツイートをした。

<まさにその通り。だからぼくは資本主義から脱する以外に本質的な解決は無いと思う。リベラルはしょせん資本主義の内でしか思考も行動もできない。>

 ここで(あくまでぼくの受け止め方として)貨幣論に関わる議論が少し起きたのだが、展開すると長くなってしまい、とてもツイッターでは収まらないため、申し訳ないがそこで議論を打ち切らせてもらった。
 この文章はその議論を進めるものとして書かせていただく。

A-2 「命と命」と言うが…

 ここで必要かどうかわからないが、やはり発端なので、磯野氏の見解についてぼくの思うことを書いておく。

 磯野氏の見解は概略、感染症対策は必要だがそれによって個人の自由が奪われる社会になってはいけない、そのために社会はある程度の疫学的リスクを容認するべきだ、ということだとぼくは解釈した。
 磯野氏は「医療人類学者」というユニークな肩書きで登場しているが、とは言え別に専門的な医学知識をお持ちではないようだし、まして現代の感染症対策に精通されているわけでもないようだ。もちろん、ぼくよりあるとしても。
 ぼくから見ると磯野氏の意見には極論的な部分がある。

「(前略)緊急事態宣言が発令されれば、私たちの生活の目的はこれまで以上に「コロナにかからないこと、うつさないこと」に集約され、生活のあれこれが不要不急の観点から整理される日々が続くことになるでしょう。/そうやって私たちがありふれた生活を諦め、これまでの生活の中では決して許されなかったことを許容し、遂にはその生活に慣れる時、私たちはそこで何を手放し、失うことになるのか(後略)」

 言いたいことはわかるが、果たして今回のウイルス騒動で、そこまで日本人の意識が変わるだろうか。良くも悪くもなのだが、あの9年前の東日本大震災の記憶でさえ風化し、人々は東北のことも福島のことも忘れてしまったかのようではないか。
 おそらく磯野氏とこの点は合意できると思うが、人々の意識は社会が作り出すものである。もちろんひとつのエピソードが大きく社会と意識を変えてしまうこともあるから、今回のウイルス騒動がそうならないとは言えない。しかし、このウイルスの流行はやがて落ち着くことになる。専門家はワクチンが開発されるか、集団免疫が出来るかするまでと言っている。まあ一年くらいはかかるかもしれないけれど…。いずれにせよ、もし人々が自発的に過剰な強い規制を求めるようになるのであれば、それはウイルスのせいではなく日本の社会構造と歴史性、意識・思想性に原因を求めるべきだろう。フロムが「自由からの逃走」で示したように。

 加えて、磯野氏は緊急事態宣言をちょっと過大に考えすぎていないか? 確かに政府・行政に強い権限を付与したものではあるが、諸外国と比べればかなり弱い。それでも人々に大きな萎縮効果が出るかもしれないが、そうなら、それは違うのだと正しく伝え続けることこそが言論人の役割だろう。

 ニュアンスは違っても磯野氏と似たような主張をする「リベラル」文化人は一定程度いる。たとえばジャーナリストの青木理氏も、”下(=民衆)”の側から政府に私権を制限するような権力を行使することを求めるのは健全ではない(2020/4/7″羽鳥慎一モーニングショー”)という趣旨のことを言っている。
 青木氏がストレートに政治の問題として言っているのに対し、磯野氏が主体の内面の問題として語っているという違いはあるが、方向性は似ている。また青木氏がそれでは感染拡大のリスクの方をとるべきなのかどうかを明言しないのに対し、磯野氏は潔くリスクを取る方を選択するべきと語っている。

 話は脱線するが、今回のコロナウイルス流行騒動の中で、いろいろな人の今まで見えなかった思想性が浮き出てきた。これまでいつも対立していた保守とリベラルの論者の意見が一致したり、保守と保守、リベラルとリベラルで同じような立場と思われていた人たちが対立したり、このことはぼくたちが普段無意識に振り分けていた右だの左だのというカテゴライズとは違う複雑な思想・政治的立場があることに気づかせてくれた。

 脱線ついでに戦前の左翼運動の話をすると、当時左翼内部にアナ・ボル論争というものがあった。アナはアナーキスト=無政府主義、ボルはボルシェヴィキ=マルクス・レーニン主義で、この2潮流による路線対立である。ちなみに近年ではどうもアナキズムへの評価が復活する傾向があるようだが、戦後の左翼運動はマルクス・レーニン主義が圧倒的に優勢だった。
 経験談で言えば、戦後の左翼や左派、革新、リベラルの中にも、徹底的に組織や集団行動を嫌う傾向と、強く団結した組織勢力の拡充・拡大を指向する傾向の両者が、実際にはかなり複雑に混じり合っていたと思う。単純にこれと結びつけるのは危険だが、現状では本音ベースで民衆の健康を守るために強力な社会的統制が必要だと思う人々と、統制を受けるくらいなら死んだ方がマシと思う人々が入り交じっているように見える。

 もう一つだけ脱線すると、欧米との比較というのも興味深い。個人主義が徹底しているフランスでは意外と皆が外出禁止を守っている。法律や補償の違いもあるだろが、そこも含めて個人と社会の成熟度の問題なのかもしれない。

 ぼくは「自由」の保持と拡大が、現代社会と未来社会にとって絶対的に重要だと考えているが、かといって自由がどんな場合にも免罪符になるとは思わない。あえて言えば社会のために自由が犠牲になる局面も容認すべきだとさえ思う。
 しかしそれはあくまで局面で終わらせなければならず、そのために憲法が国民の自由を保証していなければならないのである。今、この機に乗じて国民の権利を縛るための改憲論議をやろうとしている右派勢力がいるが、そんなことは断じて許してはならないと思っている。
 その上で、この問題は思想性、哲学性の問題ではなく、政治的、法制的側面で歯止めをかけるべき問題だと考える。磯野氏や青木氏の主張はやや観念論的に見えてしまう。
 磯野氏は政府の規制によって社会が死ぬと主張するが、自由を盾にとって感染を拡大させる行為が横行したら、それこそ社会の構成員同士の不信と対立が増大し、社会は存立の基盤を失うかもしれない。
 氏は「「命と経済」の話ではなく「命と命」の問題」だと指摘し、規制派と反(非)規制派「双方が「弱者」」だと分析している。だが、そうであるならトレードオフ=二者択一ではなく両者を生かすために何が成されるべきかを考えるべきで、つまりこれはどうバランスをとるかの問題のはずではないのか。氏も現状のバランスが偏っていることを次のように言っている。

「リスクが選択的に可視化され、他のリスクが見えなくなることの危険性を指摘しているわけです」

 ぼくもその意見自体に異存は無い。氏はその上で、感染者数と死者数ばかり報道され、その後の失業者の増大やそれによって被害を受ける人、亡くなる人のことが可視化されていないと述べる。しかし、それは誤りだ。多くの人はそうした経済(死)問題に注目しているし、むしろ今までのマスコミは「規制をして経済が立ちゆかなくなったらどうするんだ」というスタンスで、「ただの風邪」論者の言説を大量に垂れ流してきた。危険を訴えるメディアを袋だたきにしてきた。
 磯野氏は「問われているのは『命と経済』ではなく、『命と命』の問題」と言いながら、実のところこうして経済優先論者に近い主張をしているように見えてしまう。
 タバコが害なら酒も害だろうと言われればその通りである。しかし、やはり科学的、医学的に言って酒よりタバコの方が他者に対する害毒の点から言っても影響が大きく、だからより優先的に規制されるのである。汚い言葉で恐縮だがミソもクソも一緒にするのは間違いだ。

 ただ公平に見て、磯野氏の意見の基盤になっているのはおそらく次のような部分なのだろう。
 現代の医療・介護現場では、医療上の必要性から、高齢者の身体拘束や栄養管理(チューブを付けたりとか)をせざるを得ず、それがかえって寝たきり状態へと症状を悪化させている実情を指摘して、次のように述べる。

「出口の見えないまま、目先の安全・安心・効率を優先した結果の廃用症候群です。/そうやって寝たきりになった人は科学の力で確かに生きています。でもそれが「生きる」ことなのでしょうか?」

 まさにこれは医療従事者ではなく文化人類学者の問いである。
 実はぼくも昨年93歳だった母を亡くした。もちろん新型コロナウイルスではなかったが間質性肺炎だった。だから今テレビで肺炎の方や入院病棟などの画面を見るといたたまれなくなるところがある。ぼくも現実に母の拘束(医療現場では抑制と呼ぶ)や挿管による栄養補給などに直面した。
 しかしはっきり言って、母が生の尊厳を奪われたとは思っていない。医師も看護師も何をするべきか、そして何をせざるべきかを常に考え、苦悩し、決断してくれたし、ぼく自身も意見を伝え続けた。重要なことは技術があるのであれば、なにかしらの方法があるのであれば、それを利用するかどうかは、最終的に各個人の判断に任せる以外にないということだ。
 それは当然、何を「生」とし、何を「死」とするかという判断でもある。そして医療従事者の側は、そして今の状況で言えば政府や行政サイドは、死なせずに済む方法があるなら、まずそれを全力で遂行するしかないのである。

 そもそも人間の死も社会の死も、何を持って死と認定するのかは文化が決める。もちろん文化はその社会が持つものであり、また個人が持つものである。その選択権が残されねばならない。ではそれをどう担保するのか。それが法律であり憲法である。違う価値観、違う文化を併存させるために法律が存在するべきである。

 個人の自由を守るために社会全体にリスクを与えてもしかたない、それは社会を健全に保つために必要なことなのだ、という意見は、確かに傾聴に値する部分がある。しかし、社会を守ることは類的存在である人間の自分自身を守ることであり、そのために限定的に自分の自由を自粛するという選択は、近代主義の理念を否定するものでは無いと思う。むしろ押し流された結果ではなくそれを自ら決断できる人間は確立された個人であるとも言える。(いや実際にはそうじゃない奴らばかりだから心配なのだよと言うのもわかるけど…、それはそれで悲しい国なんだなと思う。真面目に言えば、そうであればやっぱり現在のコロナウイルスの対策とは別の脈略で考えるべき事柄であろう)

 話がずいぶん脱線したかもしれないが、これがぼくがこのインタビューを読んだ感想だ。

A-3 本題に戻ると

 さて、本題であるリツイート主の問題意識に即して、磯野氏の発言をどう考えるかだが。

 リツイート主はこう主張する。

<カネの問題VS生命の問題、と僕も思わない。カネの問題=生命の問題>

 これは微妙に磯野氏の問題意識とは違っている。
 磯野氏は規制強化の立場とそれに反対の立場があって、相互に対立しているという見方から、この対立が「命かカネか、どちらを取るのか」という対立ではなく”人間の生存権の対立”なのだと言っているのだと思う。
 この場合、生存権の片方は病気にかかりたくない、死にたくないという生理的な生存権であり、もう一方はカネが無かったら生きていけないという経済的生存権である。これだけなら、やっぱり「命と経済」の問題でしか無いのだが、同氏は後者は本当は経済的な問題では無く「自分の生活をお金と引き換えに明け渡」したくないという精神的、思想的立場(であるべき?)なのだと論理を転換させる。
 この辺りの論理展開が不十分なので分かりづらいというか、ちょっと強引な感じなのだが、短いインタビュー記事なので目をつぶるしか無い。

 これに対しリツイート主の意見は明快である。カネは命であり、命はカネであるというのが自由主義リベラルの、つまりは資本主義者の考え方だと断言している。だから対立点は「カネvs命」ではなく、分かりやすく言えば「命=カネvs命=カネ」というまさにトレードオフの(もしくは結局カネの問題だからカネで解決すれば対立は解消する)構造にあると主張する。
 なんにせよ、この主張は全く正しい。もちろん、資本主義者の立場で言えば、ということだが。
 そして、磯野氏の問いかけ「命vs命」「弱者vs弱者」のトレードオフという問題について、磯野氏同様、本質的な解決への道筋を示すことが出来ていないように、ぼくには見える。

B 社会主義者である私の経済の見方

B-1 貨幣・通貨=おカネとは何か?

 実はリツイート主は「貨幣は呪術」であるとも述べている。しかし貨幣は明確に「商品」=モノである。
 人類の発生をいつと考えるかは議論の分かれるところだろうが、おおよそ数十万年から数百万年前と言ってよいだろう。その長い人類の歴史の中で我々が貨幣経済を行ったのは、たかだか1万年に満たない期間でしかない。しかも貨幣経済が人類の経済活動のほとんどを支配したのは長く見積もってもわずか数百年だ。
 では人類の流通経済はどのようにして始まり、どのようなものだったのか。もちろん物々交換である。

 海の近くに暮らす人々が海産物を、山の近くに暮らす人々が木の実や果実、獣などを持ち寄ってお互いに交換した、これが流通の始まりだったろう。しかし物々交換は効率が悪い。
 ぼくが本が欲しいと思う。それで家の畑の大根を抜いて本屋に持って行く。本屋が大根を欲しいと思えば本と交換してくれる。でもいつでも本屋が大根を食べたいわけではない。そうすると交換も出来ないし、大根を抜いて運んでいった労力も無駄になる。
 そこで一定の範囲のコミュニティの中で、誰もがいずれ必ず必要になるであろうモノを交換の共通の指標として特別な商品として使うようになる。たとえばそれは塩かもしれないし米かも貝殻かもしれない。今度はぼくは塩を持って本屋に行き、塩と本を交換する。本屋は今は塩はいらないけれどその塩を受け取って、そのまま漁師の所に行く。漁師は塩を受け取って魚を渡す。結果的に本屋は本と魚を交換したことになる。

 この特別な商品=一般的商品=塩が貨幣である。
 だから本来貨幣は実質的に価値のあるモノであった。金貨、銀貨はまさにそれだ。この時点では「信用」は必要ない。貨幣というモノはそれ自体が価値を有する商品だからだ。

 ところがやがて通貨の発行権が特定の有力者に固定されるようになると、「コレ、本物の金銀じゃなくて良くね?」と思う奴が出てくる。実際の価値より低い価値の貨幣を造って流通させれば、その分その発行者の富は増えることになる。貨幣が実体的なモノから遊離し始めるのである。
 その傾向はやがて紙幣などの発明も経て加速し、ついに実体的なモノとの同一性を完全に失う。別の言い方をすれば、貨幣・通貨はモノから解放されて自由になり、ここに経済は完全で全面的な貨幣経済を完成させる。それは資本主義の完成とも言えるし、完全な金融資本主義社会の始まりと言えるかもしれない。
 ただし、これは本当につい最近のことだ。およそ50年前、アメリカ合衆国が金本位制を廃止するまで、少なくともドルは金(ゴールド)と直接結びついていた(ことになっていた)。

 とは言え、貨幣・通貨が現実のモノと分離したとしても、本質的には商品であることに変わりはなく、通貨の売買が成立する根拠でもある。

B-2 経済原則

 さて、いくら貨幣がモノから分離したと言っても、現実のヒトは現実のモノによってしか生きることが出来ない。
 では、今現在の地球上にどのくらいのモノが存在するだろうか?
 答えは少なくとも70億人以上のヒトを生かせるだけ、である。なぜなら現実に今の世界でこれだけの人が生きている以上、当然それだけのモノが存在しているはずなのである。もちろんそれは今日の話であって明日を保証するものではないが。
 とは言えこのことは大変重要なことなので、まず押さえておきたい。
 別の言い方をすれば、経済学的な数値に置き換えてしまうと、この本当の現実・実情はすぐ見えなくなってしまうから、このことに常に注意しておく必要があると言うことだ。

 ところで仮想の物々交換の世界に一人の漁師がいたとしよう。
 彼は働いて魚介をとる。そしてそれを他の人々が持つ様々なモノと交換する。
 この場合、彼はいったいどのくらいのモノを得るのだろうか。
 少なくとも漁師は自分でとった魚介を他者と交換することによって、自分が今日生きることができるだけの食料が得られなければならない。さらに彼の扶養家族が生きられる分も獲得できなくてはならない。それにプラスして必要な燃料や衣類、家屋の維持に必要なモノも得られねばならず、さらに漁に出られない日もあるだろうし、これから子供を産んで育て家族を増やすだけの余裕も必要だ。厳密に言うと少し位相が違うが、漁に使う船や銛や網なども手に入れられないといけない。
 漁師が漁師として魚を捕って暮らしていくためには、彼が働いた成果が、最低限、このように自分が生きられ、家族が生きられ、子孫を残すことが出来るだけのモノと交換できなければならない。これは絶対的な基準である。なぜなら、そうでなければ漁師という職業は成立せず、そうすると社会には必要な魚介類が供給できず、結果的に社会は衰亡してしまうしかないからである。

 しかし果たしていつでもそんな風に必要なモノが手に入るのだろうか。これは最終的にトータルとして可能になると考えるしかない。なぜなら人類の歴史が発展の歴史だったからだ。もし人間が働いて前述したような必需品を、しかもいくらかの余裕を持って得ることが出来ないなら、人類はすでに滅んでいるはずだからだ。
 このことを仮に「経済原則」と呼ぶことにしよう。

 ここでもうひとつ注目すべき点があるので一言付け加えておく。
 時間のスパンを一年間と設定して、ある閉じた共同体の中の成員がそれぞれ働き、生産物を交換しながら全員がその一年間を生きられたとする。一応そこに単純な市場原理や流動性が発生すると仮定すると、各成員が一年間働いて生み出す生産物は、それぞれおおよそ等価になると考えられる。もちろん各人の生産性の違い等によって異なる部分はあるだろうが。
 この場合、当然各成員はそれぞれに違ったコトをしてモノを作っているのでそのコトを直ちに比較することはできない。しかし唯一、一年間働いたということは共通点として認められ、ここから「労働時間」を生産されたモノの価値の共通の基準=物差しとすることができるのである。

B-3 価値と労働価値説

 ところで、モノの値段はどう決まるのだろうか。
 ここに1本100円の鉛筆があるとする。
 この鉛筆に有用性(使用価値)と価格という2つの側面があることはすぐわかる。有用性は「書くことができる」とか「使い心地」ということだ。
 価格については、よく知られているように市場原理というものがある。その商品が欲しい人が多く、相対的に商品の数が少なければその商品の価格は上がり、逆なら下がる。一方で価格が下がればその商品を買う人が増え、逆なら減る。このような需要と供給のバランスによって商品の値段は決まってくる。

 しかし、本当にそれだけだろうか。
 常識的に考えて1本の鉛筆の値段がいくらくらいかを、ぼくたちは直感的に知っている。今いくら鉛筆が欲しくても1本100万円で買うことは通常ではあり得ない。
 マルクス主義経済学では、ここに「価値」というもうひとつの概念を導入する。この文章ではこれまでかなり乱暴に「価値」という言葉を使ってきたが、厳密な意味で使おうとすると実はかなり分かりづらい概念だ。
 またあらかじめ言っておくと、商品の値段=価格は通常は「価値」を中心にしてその上下で変動しつつ、常に価値の水準に戻ろうとする傾向を持つ。

 価値を知るために鉛筆を細かく観察してみる。

 この鉛筆の100円という値段の中には何がはいっているのだろうか。
 まず文房具屋の儲け分が入っている。この場合、文房具屋の「儲け」には当然前節で明らかにした「経済原則」が貫かれている。文房具屋が(個別的にはともかく)社会的、一般的に存立するためには、ここに彼と彼の家族が生きていくことができ、商売が続けられるだけの利益が含まれていなければならない。
 さらにこの100円には運送費も含まれているだろうし、当たり前だが工場で生産に携わる人の給料も、原材料の木材を切り出してくる人の取り分も入っている。わかりやすく言えば1本の鉛筆に様々なコストが集積されていると言えるわけだが、いずれにも経済原則が成立しているはずで、そうでなければ鉛筆という商品は社会的に成立しない。

 もちろんここに市場原理の力が加わるし、また商品の生産と流通の各段階でより多く儲けようとする動きも加わるから、それらは常に変動する。しかし社会が現に成立している以上、すべての経済活動において経済原則が最終的にはトータルとして成り立っているはずである。

 さて、価値とは何かをもう少し細かく見てみる。
 たとえば鉛筆の原材料の木材。鉛筆1本分の材料費が20円だったとしよう。
 ただ山に木が生えているだけではそれは材料にならないし、だから価値も存在しない。誰かが木を切って運び出して製材するコトによって初めて20円の価値が発生する。
 この「コト」とは、つまり人間の労働=労働力である。
 だがよく考えてみると、材木に価値を与えるためにには、たとえばノコギリというモノやトラックや燃料というモノが必要となる。そもそもこの木が植林されたものなら、そこにも初めからコストがかかっている。一見すると20円の中には労働力以外のモノの値段も入っているように見える。
 しかし、それをさらに細かく見ていけば、ノコギリの価値はそれを作った人の労働力と鉄や燃料などの材料のコストから成り立っていて、さらにその鉄や燃料などの価値はそれを掘り出して加工した人の労働力から成り立っていることが分かる。
 つまり究極のところまで見ていけば、商品の価値は、自然物という原初的には経済的に無価値のモノに、労働力を使って付与されたものであって、まさに丸々労働力そのものと言うことが出来るのである。価値の源泉が労働力であることを、ここでは「労働価値説」と呼びたいと思う。

 つまりひとつの商品は価値の集積体であり、その実体は人間の労働力そのものと考えられる。そしてその価値の大きさは経済原則によって規定される。

 細かい分析は省くが、繰り返すと、もし資本主義経済がノーマルに機能し、単純に市場経済によって自動的にコントロールされているのなら、価格は常に変動しつつ、常に価値に接近しようとする。
 ところが現実の資本主義はそのようにはならなかった。資本主義の初めにはこうした「神の見えざる手」が働いたこともあったろうが、そこには落とし穴があったのである。少なくともそのひとつが「恐慌」の循環的発生だ。恐慌についてここで触れる余裕はないが、資本家階級は恐慌を押さえるために「神」に代わって経済を自分の手でコントロールしようとするようになる。その結果、資本主義は歪んだシステムに変貌していくのであるが、その詳細はまた別の機会に譲る。

C 資本主義の限界

C-1 簡単なまとめ

 このままでは話しがダラダラ続くだけなので、結論的な話に移りたい。
 ひと先ず、ここまでのまとめとしては、商品=生産物の価値は労働者の労働によって与えられたものであり、その大きさは経済原則によって決まってくる。経済原則が成立しないと人々は生きていけないし、社会も崩壊する。
 また労働自体は直接比較できないが、労働時間を物差しにすることが出来る。
 貨幣は本質的に商品であって本来はそれ自体の価値を持っていたのだが、貨幣経済の発展の過程でモノから切り離されてしまった、というようなことだろうか。
 ここでひとつ補足しておくと貨幣がモノから切り離されてしまうということは、同時に労働と価値から切り離されてしまうということでもある。リツイート主の「貨幣は呪術」と言う問題は、おそらくここに由来する。おカネに名前は書いてないとよく言われるが、このようにカネを介在することによって、人間の生命活動そのものである労働によって生み出された価値と商品との間が切り離され、それは本来労働者の生産物であるはずの商品とその価値が労働者から奪われるということも意味する。
 もし労働者の労働が商品に正しく反映されるなら、そして貨幣が商品と労働の価値を正しく反映するなら、社会の成員は社会生活において基本的に生きていけるはずである。そして、価値を生んだ者にまずその価値と同等の分配が行われるなら、大きな貧富の差は生まれないはずでもある。
 しかし、資本主義は構造的にこうした関係を歪ませざるを得ず、結果として大きな貧富の差を作ってしまう。つまり労働者の生み出した価値がどこかに(それはようするに「資本」と「資本家」にだが)奪われる構造になっているのである。

 もちろん資本主義の全体像の説明は、触れていないことの方が多いこの文章ではとうてい不十分である。資本と労働の関係(有名な搾取の問題等)とか、生産手段の私有化・共有化とか、重要な問題はまだ沢山残っている。そのためこの文章はかなり乱暴な展開になってしまっていて、それはぼくの力量不足なのだが、とりあえず言いたいことは以上のようなことである。

 資本主義は完全な貨幣経済として完成し、それは自律的な経済システムである。だが一方それは人間が作り出したシステムであるにも関わらず、人間にコントロールすることの出来ない暴走機関車のようなものになってしまった。
 とりわけ金融資本主義ではカネが実体であるモノと完全に遊離してしまい、何がどうなっているのか誰にもわからないという事態にまで至っている。

C-2 再度冒頭へ

 もう一度冒頭の磯野真穂氏の記事に戻ろう。

 本当なら、磯野氏の文化人類学的問題意識に踏み込むために、資本主義が世の中にあるあらゆるモノとコトを全て商品化してしまい、その結果人間も商品化されて他の人間と分断されてしまうという「疎外論」や、おカネが世界の全てを支配するようになる理由を分析する「物象化論」のような哲学的分野の話しをしなければならないが、今はそれも省略しよう。

 そのような不十分な論議の中ではあるが、カネと命と人々の対立の問題についてもう一度考察したい。
 普通に考えれば、カネと命は別のことである。そもそも人類は長いことおカネを持っていなかった。そしてまた普通に考えれば、カネより命が大切であると思う人が多いと思う。
 一番の問題はこうした「普通」の感覚が資本主義社会では通用しないということなのだ。もちろん資本主義以前の社会が今より暮らしよかったと言いたいわけではない。そもそも生産性の低い社会では常に命の瀬戸際で生きていた人も多いだろう。
 しかし前述したように、現代の社会では少なくとも皆が生きて行くだけのモノが、実体として存在していることは間違いない。それが必要な人に分配されず、必要ないはずの人に余計に分配されてしまっているのだ。その原因のひとつは、労働によって正当に分配されるはずの価値が、まさにおカネの「呪術」の力(労働からの切り離し)によって、どこか別の所に密かに奪われているのに見えなくなっているからだと言える(もちろん細かく論じるなら、扶養の問題とか、そもそも社会とは何か、現代日本社会における労働とは何かというような問題も論じなければならないだろうが)。

 もうひとつ考えなくてはならないのは、磯野氏がこの問題が「弱者vs弱者」の対立になっていると指摘している点である。
 経済的弱者が生き延びるために健康弱者にリスクを負わせる構造。しかし、なぜ弱者は弱者なのだろうか。
 確かに肉体的な健康弱者は必然的に生じるものだろう。少なくとも加齢は誰にだってやってくる。また社会の中では、とりわけ資本主義経済の中では貧富の差も当然出てくるだろう。しかしなぜ彼らは「弱者」であらねばならないのか。
 それは弱者が政治的弱者になってしまうからではないのか。

 近代主義思想の基本理念はフランス革命のスローガンに象徴される。あの「自由、平等、友愛(博愛)」だ。
 そこから民主主義国家と資本主義経済が誕生した。民主主義国家は国民主権であり、本来は平等な人民が共同で政治の主導者の役割を果たす仕組みになっているはずだ。人民(国民)が自分の代理を自ら選んで自主的に自らの権力を委任して政治を行っているはずだ。本当にそうなら政治的弱者の生まれようはずがない。
 しかし一方の資本主義は労働力=価値をすべて貨幣=カネに変換することによって、社会的な力をおカネという形で集積することになった。ここで「カネは力」になったのである。だからよりカネを集めた者がより多くの労働力を獲得していることになり、社会的力を一手に握る形になる。腕力が支配する世界では腕力が権力であったろうが、現代社会の権力はカネなのである。
 だから経済的貧困層は弱者になってしまう。

(もっとも、健康弱者については、結果的にその多くが経済弱者に落ち込んでいく可能性があるにせよ、経済的な強者でありながら健康弱者の人もたくさんいるだろう。今回のコロナウイルス騒動でそれがどういう位置関係にあり、どういう意味を持っているのかまでは論じきれない。それとこの経済弱者=政治弱者という関係は資本主義に限らず歴史的、文化的に常に普遍的な事象のようにも見えるが、その点の議論も今はできない)

 民主主義は当然政治的平等が原則であるが、一方の資本主義経済は競争=奪い合いによって常に必ず勝者と敗者を作る。この両者が別の原理として並立するなら問題はまだ小さい。しかしおカネが権力となる社会構造では、民主主義の原理は資本主義に蹂躙されざるを得ないのである。

C-3 最後に

 残念ながら、今現在の新型コロナウイルスの流行とその対策を考える上では、いかにここで何を論じても、結局は経済的弱者に対する経済的補償の徹底以外の方策は無い。思想的・理念的な規制反対論は、結果的に経済的弱者を切り捨てる経済優先論の援護射撃で終わってしまう危険性をはらんでいる。

 しかし、それがこの問題の本質的解決ではないことも事実だ。本質的問題は貧富の差の根絶とは言わないまでも、政治的弱者を生み出す社会構造の抜本的改革にしかない。
 その問題意識から社会の構造を経済システムから変えなければならないと考えるのが、社会主義(共産主義)革命論の起点である。
 それはもちろん近代=資本主義の否定であるが、当然ながら前時代への逆行を志向するものでは無い。近代の資本主義と民主主義が成し遂げたこと、様々な成果を受け継ぎ、それを発展的に解消していくことで資本主義を乗り越えていこうとする運動だ。

 歴史の教科書を開けば人類の歴史が様々な経済的・政治的時代の変遷であったことがわかる。ここでは経済と政治の関係については触れないが、なんにせよ時代は必ず変わっていくのである。ぼくたちはこの時代に生まれ、この時代に生きてきたから、この時代が永遠に続くと錯覚しがちだ。おそらく古墳時代の人も封建時代の人もその時代のシステム・ルールが無くなるとは思っていなかったろう。
 しかし、必ず時代は変わる。それが人類の宿命なのだとも言える。

 社会主義者の弱点は、じゃあ次の時代はどんな経済、どんな社会になるんだと訊かれても明確に答えられないことである。
 誰であれ、未来のことを予言できる人はいない。カール・マルクスは共産主義の親玉みたいに言われているが、彼も彼が生きた時代の分析をしただけで、未来の予言をしたわけではない。
 ただその現代社会の分析を通じて、どこに根本的な問題があるのかを考え、それをとりのぞくことを考えていくしかない。重要な点は、部分的な改良では済まない抜本的、本質的問題をあぶり出し、だから改革では無く「革命」でしか実現できないところにまで到達できるか否かである。
 それがたとえば、おカネという問題を考えた結果、貨幣を介さず労働者が生んだ価値がそのまま労働者に還元されれば良いという論議になるのだが、もちろんこれは理想型を図式的に言っているだけであって、実際の経済システムのデザインは、正直、革命を遂行しながら試行錯誤で作っていくしか無いのではないかと思う。

 20世紀のレーニン主義からスターリン主義にいたる勢力は、現実の政治環境の制約を受けていたとは言え、社会主義革命を標榜しながら実際には時代を逆行させるような非民主主義的政治体制と無理なデザインの経済システムの強制的な導入を図った。そして結局ただの前時代的圧政国家に成り下がってしまった。
 その結果、マルクス主義は没落し、「革命」は禁句となった。
 だがしかし、その間に資本主義がより良く発展したわけでも無い。むしろ資本主義もまた時代逆行の波に流され、世界は再び19世紀的様相を示すようになった。この流れを再逆転させて近代を発展的に解消し、次の時代を生み出していく闘いが求められているし、それは必ず起こると、ぼくは信じている。

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