2024年10月に、国連の女性差別撤廃委員会が日本世府に対し、皇室典範が天皇の継承権を男性に限っていることを批判し、是正を求める勧告を出した。
2025年1月29日、日本政府はこれに反発し、対抗措置として国連人権高等弁務官事務所に対して、用途を特定して毎年拠出している任意拠出金から女子差別撤廃委員会を除外する旨を発表した。
大人げない対応だと思う。
日本政府はそこまでこの勧告が恐いのだろうか。
まあ、恐いのだろう。
政治家が恐れるのは、この勧告に対して支持者が反発することだ。
しかし、おそらくほとんどの国民にとっては、これはたいした問題では無い。
そもそも歴史的に女帝はしばしば存在した。つまり、歴史的には天皇の座から女性が排除されていたわけではない。
勧告の言うように、これは明治以降に制定された「皇室典範」の問題でしかない。戦後の日本はこうした大日本帝国下で作られた多くの問題ある制度を廃してきた。そして、それは社会を活性化させることはあっても、支障をきたすようなことは無かった。
今回の問題でも、いま日本に女性天皇が誕生して困ると思う国民はほとんどいない。
つまり政治家が恐れる「支持者」とは、一般的な国民ではなく、ある特定の勢力なのだ。
それはいわゆる「コア」な支持層だ。
自民党が選択的夫婦別姓に踏み切れないのも同じ理由。
保守政治勢力のコアな支持層とは、具体的に何かといえば、それはすでに明らかになっているような旧統一教会のごときヤカラである。
別の見方をすれば、自民党や右派政治家が当選するのは、こうした「一般的な国民」ではない、特殊な勢力の力によっているとも言えよう。
こうした勢力を一言で言えば極右だが、もう少し厳密に言えば「戦前原理主義者」だ。
前述したとおり、こうした勢力が「伝統的価値観」として復権・浸潤させようとしているものは、全て明治以降に意図的に作られた歴史感や道徳、社会的秩序だからだ。
たとえば夫婦同姓というのも、明治以降の国家体制の基幹としての「家」制度によるものでしかない。
明治以前には制度としての「家」は武士を筆頭とした特権階級、支配階級にしか存在せず、そもそも基本的に一般民衆や女性が名字を持つ制度はなかった。(※屋号は存在した)
それを人民支配の手法として全国民に押しつけたのは明治政権である。
では「戦前原理主義者」はなぜ戦前の制度や価値観を復活させたいのか。
それが自分達にとって有利だからに他ならない。
男は女を支配し、「家」が家族を支配し、生まれた「家」の格が社会的地位を決定し、絶対的権威としての天皇を頂点とした頑強なピラミッド型社会によって人々が支配される、そういう社会が自分にとって有利だと考える勢力が、すなわち戦前原理主義者なのだ。
それは何もせずとも自動的に支配する側に立てるということであり、ここでは触れないが、いわゆる「体育会系」思想と同根だ。
しかし、だからと言って単純に上位に立つ者だけが、こうした思想を支持しているわけではない。
しばしば、支配される側、「下」側の者もこうした支配秩序を支持する。
不思議な感じもするが、それはかつてマルクスが「ルンペン・プロレタリアート」と呼称した現象にも通じる。
ひとつには、どんな地位であれ、自分の地位が固定されることは、それ自体安定だ。我慢して従っていれば一応なんとかなる。
それ以上に、ピラミッド型社会では、自分の上が存在すると同時に常に自分の下も存在する。この意味は大きい。
仮に現実には「下」が存在しないとしても、観念的に想定することは出来るし、もしくは無理矢理に「下」を作り出してしまえばよい。
たとえば前者は外国人差別、後者はイジメを考えるとわかるだろう。
この構造は、つまり自分の劣等感を優越感に転換させる装置なのだ。現実の社会の中で抑圧されていたとしても、ピラミッド型社会では、さらに自分が誰かを抑圧することで、その不満を解消することが出来る。
その心地よさが、こうした構造を支え、ひいては戦前原理主義に傾倒するモメントとして働いているではないだろうか。
最後に、もうひとつ時事的話題に触れるなら、最近も何度も発生している通り魔的無差別殺傷事件は、社会的に孤立した者の犯行であることが多いが、それはこうしたピラミッド型秩序からさえ弾き出された者が、不意打ちの形で他者を襲い、その結果として、傷つけられる者より傷つける側の自分の方が強いと思い込みたいからではないのか。
それによって自分の抑圧感を発散しようとしているのではないのか。
そういう、歪んだ形でのピラミッド型秩序への回帰を目論む行為なのではないか、そんな気もする。