Another Option 出版の第一弾として、田畑久志氏の『世界の片隅で、「エチカ」を叫ぶ』を発行いたしました。
現在、PDF版を無料公開中です。
田畑氏は1980年代後半より働きながら社会運動に参加され、その中で多くの哲学的、思索的、政治的な文書を書いてこられました。本書はそうした若い日の論文を中心に第一著作集として編まれたものです。
著者のご厚意で全編をPDF版で無料公開することとなりましたので、この機会にぜひご一読下さい。
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Nさん
今回(2025年6月)の都議選の結果ですか?
ぼくは都民ではないし、正直ほとんど結果も見ていません。
なので、ニュースをチラ見しただけの、ただの印象しか申し上げられません。不正確なところがあったらお許し下さい。
印象と言うことで言えば、あまり明るい結果とは思えませんでしたね。
自民党が「大敗」したとされていますが、実際には右派が投票先を分散させただけで、別に政治状況が変わったわけではありません。
その代わりに都民ファが延びただけで、都政に大きな変化は無いでしょう。
参政党も初当選が3人出たわけですが、これは安倍派の岩盤支持層がそのまま極右政党に入れたと言うことだと思います。
注目点は、共産が減って、国民民主が大躍進したことです。
国民民主は基本的に自民党と同じスタンスで、その支持層は安倍自民党を支持していた層と重なっているそうですから、都政においては「野党」になるのかもしれませんが(今後どうなるか分かりませんが)、この結果は事実上、右派勢力が圧勝したものだと言えます。
石丸新党=再生の道が全員落選したことにずいぶん関心がおありのようですが…
石丸新党が議席を取れないのは初めから織り込み済みなので、特段言うべき事もありません。
そもそも石丸伸二氏自身が出馬するわけでもない、政策も出さない、ひとつの選挙区に複数人の候補を出してくる等、初めから勝つつもりは無かったと思います。
最近の物価高騰と米問題で石丸新党はマスコミから完全に忘れ去られてしまいました。SNSでもN党立花氏や参政党、またいわゆるお騒がせ系が悪目立ちする中で、埋没してしまっています。
どのみち勝ち目はないと判断していたのでしょう。
それでも今回候補者を擁立したのは、消えていないぞと言うアピールと、現在の選挙環境の潮目を観測するためだったのではないかと思います。
波に乗れそうだと見たら、石丸氏は参院選、もしくは幻に終わった衆院選に出るつもりだったのかもしれません。
石丸氏が昨年の都知事選で第二位となったのは、いわゆるSNS選挙を駆使したからと言われましたが、これはなかなか難しいところのある手法です。
SNS選挙で勝敗を分けるのは、投稿数・閲覧数の差です。
支持者が情報をどれほど拡散するのかというある種の物量戦なので、SNSを使う同じような政治勢力が競合すると、最終的には誰かがひとり勝ちすることになるのかもしれません。
というのはSNSはその特性上、深い話、長い論理は嫌われます。短く簡単で分かりやすい主張が受けるのです。
なので、似たような政治勢力はその差を示すことが出来ず、結果としてどこかに注目が集中し、突出することになるのかもと思います。
今回は国民民主と参政党がSNSでは勝ったと言えるのかもしれません。
(まあ、だからSNSでは底の浅いポピュリズム的主張ばかり蔓延し、結局政治が空疎なものになり、それはやがて大きな危機を招く危機をはらんでいます。この辺の空疎さは2025年6月24日に国民民主の玉木代表が、外国特派員協会で「女性には政策を理解するのが難しい」と発言したあたりにもよく見てとれ、政治家自身が自覚的に政策を脊髄反射的にウケるだけの薄っぺらいものにしようとしているのです。簡単に言えば愚民化政策です。)
問題は参院選ですが、この傾向はそのまま出ると思います。
「そのまま」というのは、右派=自民、国民民主、参政にプラスして、東京では全く人気が無いが関西では今だに支持者の多い維新が加わって延び、立憲、公明という中道右派が続き、左派は(と言っても事実上共産党しかいませんが)大敗するということになるのではと思います。
とても困った状況です。
2024年10月に、国連の女性差別撤廃委員会が日本世府に対し、皇室典範が天皇の継承権を男性に限っていることを批判し、是正を求める勧告を出した。
2025年1月29日、日本政府はこれに反発し、対抗措置として国連人権高等弁務官事務所に対して、用途を特定して毎年拠出している任意拠出金から女子差別撤廃委員会を除外する旨を発表した。
大人げない対応だと思う。
日本政府はそこまでこの勧告が恐いのだろうか。
まあ、恐いのだろう。
政治家が恐れるのは、この勧告に対して支持者が反発することだ。
しかし、おそらくほとんどの国民にとっては、これはたいした問題では無い。
そもそも歴史的に女帝はしばしば存在した。つまり、歴史的には天皇の座から女性が排除されていたわけではない。
勧告の言うように、これは明治以降に制定された「皇室典範」の問題でしかない。戦後の日本はこうした大日本帝国下で作られた多くの問題ある制度を廃してきた。そして、それは社会を活性化させることはあっても、支障をきたすようなことは無かった。
今回の問題でも、いま日本に女性天皇が誕生して困ると思う国民はほとんどいない。
つまり政治家が恐れる「支持者」とは、一般的な国民ではなく、ある特定の勢力なのだ。
それはいわゆる「コア」な支持層だ。
自民党が選択的夫婦別姓に踏み切れないのも同じ理由。
保守政治勢力のコアな支持層とは、具体的に何かといえば、それはすでに明らかになっているような旧統一教会のごときヤカラである。
別の見方をすれば、自民党や右派政治家が当選するのは、こうした「一般的な国民」ではない、特殊な勢力の力によっているとも言えよう。
こうした勢力を一言で言えば極右だが、もう少し厳密に言えば「戦前原理主義者」だ。
前述したとおり、こうした勢力が「伝統的価値観」として復権・浸潤させようとしているものは、全て明治以降に意図的に作られた歴史感や道徳、社会的秩序だからだ。
たとえば夫婦同姓というのも、明治以降の国家体制の基幹としての「家」制度によるものでしかない。
明治以前には制度としての「家」は武士を筆頭とした特権階級、支配階級にしか存在せず、そもそも基本的に一般民衆や女性が名字を持つ制度はなかった。(※屋号は存在した)
それを人民支配の手法として全国民に押しつけたのは明治政権である。
では「戦前原理主義者」はなぜ戦前の制度や価値観を復活させたいのか。
それが自分達にとって有利だからに他ならない。
男は女を支配し、「家」が家族を支配し、生まれた「家」の格が社会的地位を決定し、絶対的権威としての天皇を頂点とした頑強なピラミッド型社会によって人々が支配される、そういう社会が自分にとって有利だと考える勢力が、すなわち戦前原理主義者なのだ。
それは何もせずとも自動的に支配する側に立てるということであり、ここでは触れないが、いわゆる「体育会系」思想と同根だ。
しかし、だからと言って単純に上位に立つ者だけが、こうした思想を支持しているわけではない。
しばしば、支配される側、「下」側の者もこうした支配秩序を支持する。
不思議な感じもするが、それはかつてマルクスが「ルンペン・プロレタリアート」と呼称した現象にも通じる。
ひとつには、どんな地位であれ、自分の地位が固定されることは、それ自体安定だ。我慢して従っていれば一応なんとかなる。
それ以上に、ピラミッド型社会では、自分の上が存在すると同時に常に自分の下も存在する。この意味は大きい。
仮に現実には「下」が存在しないとしても、観念的に想定することは出来るし、もしくは無理矢理に「下」を作り出してしまえばよい。
たとえば前者は外国人差別、後者はイジメを考えるとわかるだろう。
この構造は、つまり自分の劣等感を優越感に転換させる装置なのだ。現実の社会の中で抑圧されていたとしても、ピラミッド型社会では、さらに自分が誰かを抑圧することで、その不満を解消することが出来る。
その心地よさが、こうした構造を支え、ひいては戦前原理主義に傾倒するモメントとして働いているではないだろうか。
最後に、もうひとつ時事的話題に触れるなら、最近も何度も発生している通り魔的無差別殺傷事件は、社会的に孤立した者の犯行であることが多いが、それはこうしたピラミッド型秩序からさえ弾き出された者が、不意打ちの形で他者を襲い、その結果として、傷つけられる者より傷つける側の自分の方が強いと思い込みたいからではないのか。
それによって自分の抑圧感を発散しようとしているのではないのか。
そういう、歪んだ形でのピラミッド型秩序への回帰を目論む行為なのではないか、そんな気もする。
長らく開店休業中だったこのサイトだが、ツイッター(現X)から離脱するのに合わせて一部再開することにした。
そんなにたいしたことは書けないと思うが、思うところを書いて行ければと思う。
弁護士の山口真由氏のツイートがネットニュースになっていたので見てみた。
当該のツイートは次の通り。
「野戦病院」という悲壮な語感が独り歩きしてるが、日医会長の提案は中等症受入施設なのに対し、軽症者を収容せよとの議論、重症者まで含める論もあり、内容様々
入院待機ステーションの拡充を含めて具体で論ずれば建設的な策がある気がする
抽象的なマジックワードは左右の対立をただ先鋭化させうる
2021年8月19日午前11:57
「具体で論ずれば建設的な策がある」という指摘は全くその通りだと思う。しかし実際には巷間ではそれこそ「内容様々」な「具体」が語られていて、山口氏が出演するテレビ番組でも沢山語られている。
問題は、ちゃんとした政策決定に繋がる場でそうした議論が俎上に上っていないことだ。これはどうしても為政者の問題であり、我々がいくら主張しても政府・行政にその気が無いならどうにもならない。逆に言うなら、政府・行政は「具体で論」じて「建設的な策」を作る気が無いということになる。
これはもちろん「抽象的なマジックワード」のせいではないし、もし「抽象的なマジックワード」によって政府・行政が「具体で論」じることが出来ないなら、そんな無力な政治は即刻退場していただきたい。
なお、ただし酸素ステーション自体は何の解決にもならないというのは、その発案者も言っていることなので一言付け加えておく。
さて、山口氏は「「野戦病院」という悲壮な語感が独り歩きしてる」、「抽象的なマジックワードは左右の対立をただ先鋭化させうる」と主張する。
しかし今この医療現場の状況が「悲壮」で無くてなんであろう。
現実はまさに大災害の渦中であり、助かるはずの命が次々に失われ、医療関係者、救命関係者は不眠不休で戦っているのに、完全なる負け戦である。
リベラルの中には、このコロナ災害を戦争にたとえることを拒否する人もいるが、これはまさに戦争状態だと言うしかない。そのまさに言葉通りの最前線は悲壮であり、「野戦病院」はあまりにも適切な表現なのである。繰り返す。これは「マジックワード」ではなく現実なのだ。
にもかかわらず、人々の意識はむしろ緩み、人流もなかなか減らない。人々に現場の悲壮感が伝わっていないのである。山口氏も頻繁に出演するテレビ・マスコミはもっともっと悲壮感を伝える努力をすべきだと思うが、山口氏の主張はそれを逆に抑制しようとするものだ。
それでは果たして「野戦病院」と言う言葉は「左右の対立を」「先鋭化」させているのか。
実は山口氏も「させうる」と微妙に表現しているように、この言葉は現状では別に対立軸でも何でも無い。というより、むしろこの言葉を対立軸にしようとしている層が、これで煽ろうとしているのでは無いかという疑惑さえ感じる。
山口氏は「左右の対立」と言うが、コロナ対策を巡る議論に果たして左右の対立は存在しているのだろうか。
たとえば、リベラルの論客として知られる青木理氏と玉川徹氏は、これまでで言えば「左」側でかなり近しい意見を持っているように見えた。しかしこのコロナ禍にあって、法整備をしてでも個人の行動抑制をするべきとする玉川氏に対し、青木氏は個人の自由は制約されてはならないという原則論に立って反論した。
これはリベラルか保守かとかイデオロギーの問題では無く、究極の選択を迫られた時に社会全体と各個人のどちらの利益を優先するのか、また命と経済とどちらが重要なのかという、いわば根底的価値観の対立であり、確かにイデオロギーの問題であるかもしれないが、しかしそれは従来の右か左かという区分とは全く違う立場性=陣の再編成を生んだと言える。
これはいわゆる旧来の「左」の中だけの話では無く、おそらく「右」陣営の内部においても起こっている現象だと思われる。与党内部からの批判の噴出はそれを物語っているのかもしれない。それは更に言えば官邸と官僚の間でさえ起こった形跡がある。
それでは山口氏は「野戦病院」批判で何を訴え、何をしたいのか。
それがまさに、人流抑制へのカウンターである。
右とか左とかでは無く、これは人命と経済の関係において、経済を人命の上位に置く「イデオロギー」によるものだ。ぼくの知り合いで「おカネが無いのは命が無いのと同じ」という言葉を座右の銘にしている人がいたが、まさに経済無くして人命無しの思想である。
おそらくそう考える人は、残念ながら「左」側にもいるだろう。「右」側でもそれは違うと言う人がいると思う。そもそも純粋右翼なら経済による人間の支配を良しとしないだろう。
山口氏がどういう回路から経済を人命の上に置くのかは知らない。どこぞの輩のように、自分に関係ない人の命は猫より下とか思っているわけでは無いと思うが、経済が回らないと人々が飢えて死ぬと思っているのだとしたら、あまりにも単純である。
現実に今日、地球上で生きている人が生きている以上、「経済が回る」かどうかに関わらず、人々は生きられる。つまりそれだけのリソースが現に存在しているから、人々が生きているのだ。それは経済が回らなくても存在するし、生産もされる。ただ「経済」という仕組みが歪んでいて、経済的権益を持つ層の思い通りにならないと、中々うまく機能しないだけである。
そしてそのような近代に生まれて育った我々は、そうした「経済」こそが唯一人類を支えるシステムだと教え込まれてきたので、経済は「回る」もので、「回す」もので、それが無かったら人類は滅亡すると思い込んでいる。
しかしそれはただの思い込みだと言うことは、冷静に現実の「モノ」を観察すればすぐわかるはずだ。それが見えないのは強力な「魔法」というか「呪い」にかけられているからである―近代という名の。
それでも多くの人は魔法にかけられていて、なお直感的にカネより命が大事と言うことに気がついている。これはヒトの本能なのかもしれない。
「野戦病院」の悲壮感を自分のものと受け止め、この悲惨な戦争=災害を力を合わせて戦い抜くことしか、我々に残された手段は無い。
ネットニュースの見出しに次のようなものがあった。
“「靖国報道」に埋め尽くされてはいないか…日本のワクチン対応「不都合な真実」”
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/86301
終戦の日の翌日であり、興味を持って読んだのだが… あまりのひどさに唖然とした。なんだこれは。
まあ、いつもの「現代ビジネス」の髙橋洋一(嘉悦大学教授 経済学者)のエッセイだから期待はしてないが、いくらなんでも無内容すぎる。
これはまず編集者の責任だ。個人的な書籍ならともかく、雑誌編集としては落第点だろう。
一番に見出しが間違ってる。この文章は靖国問題と全然関係ない。驚くべき事に本当に全く関係ない。冒頭に一言触れられているだけだ。ぼくが編集ならこの冒頭部分をカットしてしまうだろう。
それに日本語の言い回しとして意味不明な箇所が散見される。いくら筆者が書いたからと言っても、この辺を直してやるのが編集者の仕事だ。そもともわざと分からなくしているのか。こんなところを理解しようとして何度も読んでいると悲しくなる。
とは言え、ぼくもこの見出しに釣られて読んでしまったわけで、「靖国」の部分にこだわらざるを得ない。
ようするに高橋の言いたいのは、マスコミは政治家の靖国参拝を報道するなということだけだ。おそらく政治ニュースを扱う全てのマスコミ各社が、濃淡はあれこの問題を報道しないことは無いわけで、それには相応の理由がある。その点を考察もしないで、ただ扱うなと言うだけでは幼稚すぎる。これだけのスペースをもらっているのだから、丸々この問題の考察に当てることだって可能なのだ。ちなみに見出しは「「靖国報道」に埋め尽くされてはいないか」だが、今年はむしろ靖国参拝報道は少ないし、高橋も別にそんなことは書いていない。誇大広告!
さて、高橋は「参拝という「心の問題」がなぜ報道する意味があるのかどうか、はっきり言って筆者にはわからない」と書くが(この一文も日本語としてかなりおかしいが、いちいちそれを言ってても進まないので不問にしておこう)、本当に分からないのか、皮肉を言ってるのか、それこそ分からない。
しかし、ちょっとだけ核心に触れたことも言う。高橋が知っている話として、家族が戦死したある閣僚経験者がマスコミに騒がれないよう記者が張り込んでいない日に密かに参拝したエピソードを紹介している。まさにその通りで、そもそも宗教儀礼は他者に見せるためのものではなく、高橋が言うように自身の「心の問題」であり、わざわざ騒がれる日に派手に目立つ格好で行く必要は無い。その閣僚経験者のあり方こそ本質的な宗教行動だろう。
逆に言えば、なぜ政治家が「みんなで」派手派手しく終戦の日に参拝しようとするのか。つまりそれは「心の問題」ではなく政治行動だからである。更に言えば、だからマスコミは報道するのである。高橋にはせめてそこまで考察して欲しかった。
高橋はもう一言、「政治家の靖国参拝は、マスコミが報道しなければ「問題」という論点にはならない。仮に「問題」になりうるとすれば外交的な意味」、「韓国と中国だけが取り立てて文句を言うので、マスコミはある意味で、韓国と中国のために取材しているようなもの」と付け加えて、それでこの話題を終えてしまう。
本当に問題視しているのは韓国と中国だけなのか(北朝鮮を抜いたのは別に意図的では無いんだろうが)とか、ではなぜ韓国と中国は特に厳しくこの問題を追及するのかとか、この一点でも相当書くべき事はあるだろうに、これではただ飲み屋でくだまいてるオッサンの愚痴でしかない。
まあそれは置いておいても、問題なのは前半だ。なぜマスコミが報道しなければ「「問題」という論点にはならない」のか。
これはただ高橋の頭の中にしか存在しない<空想上の日本>の話でしかない。いったい戦後どれほど国内において反靖国運動があったか、少なくともインテリである高橋が歴史的事実として知らないわけが無い。と言うよりリアルタイムでいくらでもニュースに触れてきたはずだ。きっと彼の中では現実と空想の世界が逆転しているのだろう。
そもそも靖国問題は一義的に日本国民、日本国内の問題である。初めに中韓が問題にしたわけでは無い。それを言うならむしろ最初は米国だと言っても良いが。
靖国神社は別に伝統的な宗教施設では無い。明治政権下で日本がヨーロッパの絶対主義を導入するに際し、欧州の文化基盤であるキリスト一神教を密輸入するため、人工的に作り上げたのが、皇国史観と国家神道であった。これはそれまでの日本の伝統や宗教とは全く違うものだった。当時の民衆が神仏分離、廃仏毀釈に非常に戸惑い反発したことはよく知られている。
この過程で中央集権的軍事国家建設のために義務教育が始められたりしたのだが、靖国神社もそれを強力に補完するための施設として作られたものだ。だから戦前は靖国神社は宗教施設では無く国家施設と考えられていた。
しかし敗戦と米軍による支配統治という状況の大転換で、靖国は表面上一般の宗教団体として生き残る道へと進む。本来、国家神道は「宗教」ではなく統治システムの一環だったが、ここで宗教ということになり、靖国神社も「信仰の自由」の対象となった。だから純粋な意味ではこれを信仰するのに問題は無い。
だが問題は国家主義者達が本心としてはこれを不服として、明治体制=大日本帝国の復興を目指していることにある。彼等はだから国家神道と皇国史観も復活させようとしているし、その運動の一環として、政治行動としての靖国参拝を強行しているのである。
外国が反対しようがしまいが、それはあくまで二義的なことだ。本質的な問題は、われわれ日本に生きる民衆が、国家主義的な統制国家の復活を許すのかどうか、そこなのである。
何かマスコミもこうした問題を忘れて、日の丸、君が代問題や靖国問題を外交問題のように扱うようになってしまったが、それに惑わされているわけにはいかない。これこそ日本の民主主義の存立がかかった、自分自身にとって最重要の問題なのだ。
高橋の文章はこうした問題の本質を人々に忘れさせようとするバイアスを持っており(とは言え、彼の知的レベルで本当に意図的にそこまで考えられているかどうか分からないが)、その意味では危険でさえある。そして、あえてその部分を脈略無く強調する「現代ビジネス」の編集方針も同様だと言えよう。
ただ、このエッセイ自体はほぼ意味が無い。このあとに続く本文では大きなグラフを沢山使って結局は、日本では新型コロナによる死者は少ない、ワクチン摂取率は急激に上がっている、政府の関連予算は沢山余っているのでそれを使えば医療逼迫など解消する、あとはワクチンパスポートを導入・活用すれば良い、というどこにでも転がっている話をしているだけだ。
こんなに読みにくいグラフを過剰なくらい使っているのに、それを細かく分析することすらしない。まあエッセイなんだから良いのだが、それならこんな論文にしか使わないようなグラフも不要だろう。
一呼吸置いて考えれば、もちろんこんな文章に引っかけられてしまう方が悪いのかもしれないと反省もする。
せめて、もう少しちゃんとした日本語にしてもらうと、ちょっとは苦痛も減るのだけれどね。
Twitter上で昨日の「サンモニ」での青木理氏の発言が話題になっていたので、録画から書き起こしてみた。
──ここから──
2021/8/8 TBS「サンデーモーニング」でのジャーナリスト青木理氏の発言より(8:30amころ)
確かにそのデルタ株ってのがね、大変な感染力なのは事実ですから脅威なんですけれど、ただたとえばアジアだと韓国とか台湾なんかは、まあ増えてるんですけれども、日本ほどにはなってないって言うか、日本はちょっと桁違いな状況になってる。だからデルタ株の脅威に加えて、やっぱり基本的には、その、政府がろくな対策とらないで、やっぱりオリンピックを強行したっていうことの、こう、影響ってのは凄い大きくてね。
で、その、さっきVTRの中で、田村厚労大臣が、その、医療にも、その、マンパワーにも限界があるんだという風に言って、それをなんとか崩壊を防ぐためにこうせざるを得ないんだと言いましたけれども、その結局、最悪の現状追認って言うかね、何もせず、オリンピックをやってデルタ株で広がっちゃって、それを追認せざるを得ないっていうような状況だったってのが実態に近いと思うんですよね。だから医療崩壊宣言って言ってもいいんじゃないかと思うんですけれども。
しかもその方針転換なのに記者会見も首相はしない。で、つまりその、で、陽性率もね、高いのは、これ検査もおそらく間に合っていないって言うことを示しているわけですよね。で、もう一番の今の基本である、日本の基本である、その、必要な医療を等しく全員が受けられるっていう状況が、もう受けられなくなっちゃっているって言うのが今の現状だっていうことを考える。
で、一番肝心なのは、これが本当に予測できなかったことだったら、しょうがないところもあるかもしれないけれども、先ほどの、その、寺島(実郎)さんがおっしゃいましたけど、もう1年7ヶ月経ってね、ずうっと予測されてたんです、今回のことは。その予測された状況に、対処が出来ていない、完璧じゃ無くてもいいんですけれども、一定程度の対処も出来ていない今の政府のありよう、あるいは、東京都はじめとする地方自治体のありようっていうことを、ぼくら本当に深刻に考えなきゃいけないんじゃないかっていう気はしますよね。
──ここまで──
当日の番組では、冒頭の台風の状況に関する速報に続いて、新型コロナ感染症の流行について、前日の8月7日に全国の感染者数が1万5000人を超え「第五波」の深刻さが増している中、政府が中等症患者を基本的に自宅療養にするという方針転換を行った問題を取り上げた。さらにデルタ株の流行とその脅威についても解説された。
青木氏は各コメンテーターの最後に発言を促され、上記のように述べた。
しゃべり言葉なので、文字起こしするとニュアンスが伝わらなくなるが、ここで青木氏が言っているオリンピックと感染の関連性は、つまり政府がオリンピック開催に傾注するあまり、感染症対策を十分にやらなかったということであり、その結果、デルタ株の流行と相まって感染が大きく拡大したという主張だろう。
また医療崩壊については、当日の放送では東京都における取材なので関西ほど生々しい状況は出て来なかったが、現実にはすでに死に直面していても入院が出来ない現状が伝わっており、事実上の入院制限となる政府方針は、まさに医療崩壊の追認以外の何物でもないことは明らかである。
現在の新型コロナウイルスの流行と緊急事態宣言下で、一部の知事などから学校の入学と学年改変時期を現在の4月から9月に変更しようという提言が出されている。
これはおそらく、学校閉鎖が3月初めから続き、このままでは3ヶ月の空白が生まれてしまうので、いっそその部分を無かったことにして9月から始まることにしてしまえば良いんだという発想だろう。また、多くの人がかねてから教育の「国際標準」としての9月入学制への転換を望んでいて、このタイミングなら実現できると踏んだのかもしれない。
しかしそこには次のような弊害がある。
まず、卒業と就職のタイミングがずれる。これによって企業の戦略に大きな齟齬が生まれるかもしれない。中途採用を一般化すれば良いんだという意見もあるが、それをこの数ヶ月、もしくは来年の春までに調整しろと言うのは無謀だ。気をつけなければならないのは、日本ではこういう状況がむしろ非正規の増大など雇用の不安定化につながる危険性が強いと言うことである。ただでさえ企業収益が悪化する状況で、中途採用制度の全面化は「買い手市場」優位に働いてしまう可能性がある。
民間企業ならある程度のやりくりは出来るかもしれないが、国家公務員、地方公務員も同じ問題に直面する。国や地方の計画に重大な問題が起きるかもしれない。たとえば今回のコロナウイルスの流行でも、裁判所や税務署が人員確保上の必要性を盾に所定の研修合宿を埼玉県内で強行しようとして問題になった。それくらい公務員の人事の年間スケジュールはぎちぎちに組まれているのだ。これはある面で「小さい政府」路線を歩み公務員の人件費を削減しまくってきたツケでもあるが、ともかくこれを短期間で調整するのには無理がある。
昨年から政府の入試改革強行の姿勢によって教育現場、学校現場がゴタゴタしている。とりわけ受験に絡む子供達の精神的負担は大きく、ここでさらに大きな改変を押しつけるのはひどいと思う。世論調査によっては入学期の変更に対して10代の反対が最も多いという結果も出ている。
授業料の取り扱いも問題になる。現在の学生・生徒の払っている授業料や入学金はどういう扱いになるのか。もし半年後にずらした場合、特に私学の経営は破綻するだろう。半年分の収入がゼロになるわけだから。
だからと言ってそのまま取り続けると今度は学生側の経済負担が半年分増えて、学生が破綻する。
そうでなくても、現状ではアルバイトの減少、親の経済的窮状によって相当数の大学生が退学を検討するという事態になっている。大学側も補助金削減の流れの中で、今回は授業料や施設費の減免の要請が突きつけられ、双方とも追い詰められている。今これ以上の混乱をもたらす危険がある入学・始業期の変更は避けてもらいたい。
学習のズレが発生する。多くの大学ではすでにオンライン講義が始まっており、そうすると半年分の講義がダブる、もしくは無駄になってしまう。これは小中高でも同じだ。それは一方では学習意欲の低下につながるだろうし、一方では教育格差として現れるかもしれない。
単純に言って来年の学生・生徒の入学者数が150%になってしまう。つまり来年の9月に入学する学生・生徒は、4月生まれから翌年の8月生まれまでとなり、当然ながらこれだけの増加に人・カネ・物が全く足りなくなる。学校側が緊急に対応することは不可能だろう。
ここまで述べてきたように、教育体制の問題からも経済的問題からも、入学時期の早急な改変は、子供も親も人生設計まで含めて激変するわけで、それをいま急に強行するのは無謀である。
現在、国も地方も役所はコロナ対策に追われて激務となっている。そこにさらに大きな負担を負わせると、公務員が疲弊してしまうし、ひいては行政が破綻してしまう危険がある。一部の「識者」は、負担が増えているのは一部の役人のみだなどと言っているが、前線が機能するために後方支援が不可欠なのであり、ある程度の余裕も無くギリギリで闘ったら敗北するのは必至である。全国の保健所を減らしてきた結果、現状のように保健所が機能不全になっていることを見ればそれは明らかだろう。
ともかく今は全力を挙げてコロナ対策に集中するべき時なのだ。
そもそも9月に感染症が収束する保証は無い。専門家の多くが秋になると大きな第二波が来ると予想している。そうなると、ここで現在の授業を打ち切り9月に仕切り直そうと思っても、また9月からの登校が出来なくなって結果的に一年近く学校教育が機能不全になってしまう危険もある。
むしろ現状においては、学生・生徒にいかに学習の機会を保証できるか、リアルに様々なケースを想定した上で熟考すべきだ。それはいわゆるリモート学習かもしれないし、分散化かもしれない。いずれにせよ、COVIT-19の流行が当面のあいだ続くことを念頭に知恵をしぼることが最優先である。
ぼくも本来的には9月入学への変更には賛成だ。しかしそれは今やることでは無い。一部の人々は、この機会をチャンスと考えて学制改革を一気にやってしまおうと言っているが、それは火事場泥棒と同じ発想で容認できない。
日本は平時ではいろいろな既得権者の声が大きく変更できないから、こういう時を利用するべきだという「リベラル」な論者の発言も聞いたが、これはとんでもない発想だ。民主主義の理念を否定しているに等しい。(レーニンの革命的祖国敗北主義になぞらえることが出来るのかもしれないが、感染症との闘いで敗北主義をとることなど出来ないことは自明である。)
なんにせよ、この問題はすべてが落ち着いた段階で丁寧にやるべきことであって、いま性急にやらなければならない必然性は無いし、やるべきでは無い。
朝日新聞で主にテレビメディア論を中心に記事を書いている川本裕司・社会部記者が、雑誌「論座」のサイトに書いた記事が同サイトやツイッター上で炎上状態になっている。
これは、
「コロナ報道におけるテレビ朝日・玉川徹コメンテーターへの疑問/生命に関わる問題があぶり出したよろずコメンテーターの限界」
という2020年4月20日付けの記事で、内容はテレビ朝日の朝のニュース・情報番組「羽鳥慎一モーニングショー」における、玉川徹コメンテーターの発言が一貫していないという批判である。
ぼくはすでにツイッターでこの問題に触れたのだが、ここでは少し詳細に論じたい。
まず公平に言って文脈だけから見れば、川本氏の主張は、テレビのニュース・情報番組一般について、命に関わる問題に対し「知見を持たないコメンテーターが、自信をもって発言するのはそもそも無理がある」、「よろず屋のような役割を担わされ」たコメンテーターが「テレビの作法や芸」として「反射神経のコメント」をするのはよくない、と言うことになろう。
これにはぼくも強く賛同する。有象無象の「文化人」がテレビ、新聞、雑誌、ネットメディアにおいて、いい加減で、無責任で、論理的・科学的根拠の無いトンデモ発言をどれほど垂れ流しているか、そしてそれがコロナ禍をより混沌とさせ感染拡大を阻害しているか、腹立たしいほどである。
しかし、川本氏の記事の本当の主眼はそこにはない。
「出演者個人の問題ではなく」「玉川氏が他番組のコメンテーターよりも問題があると判断したわけ」でもないと断ってはいるが、この記事は明らかにモーニングショーと玉川徹氏を標的にして攻撃することを意図したものと言わざるを得ない。ろくでもない番組やコメンテーターは数多あるのに、COVIT-19流行の初期から政府に名指しで攻撃されているこの番組とコメンテーターをわざわざ選んでいるのだ。そこには少なくとも何らかの理由と目的がある。まさしく記事の大半は玉川氏批判なのである。
記事によれば、安倍首相から7都府県に緊急事態宣言が出された翌日くらいの同番組で、ジャーナリストの田崎史郎氏が(なぜかこの部分について川本氏ははっきり書いていないのだが)政府の方針として企業への休業要請を「『2週間の様子を見てから』」行うと解説したのに対し、玉川氏は「『旧日本軍がやって大失敗した戦力の逐次投入をやろうとしている。投入できるものは一気に投入する。閉めてくださいという要請には(ママ)一気にお願いする』」べきだと主張した。
しかし玉川氏は、その数日前に「コロナ問題で減収に見舞われた人たちの救済策として」「『スピードを優先させまず現金を配る。足りなければまた配ればいい。それを繰り返せばいい』」と述べており、これは前述の主張と「違う理屈」になっており「論理の一貫性の欠如を露呈させて」いる、というのが、いわばこの記事の肝の部分である。
さらに記事はこのことを「これでは安倍政権を批判するためならどんな理屈をつけても構わない、と受け止められても仕方がない」「発言の信頼性に関わるような変わり身」とまで断罪する。
また玉川氏はよく「『この件については以前取材したことがある』」と言うのに、COVIT-19についてはそう言ったことがなく、だから「感染症については取材した経験がないのだろう」と川本氏は<推察>する。
しかしCOVIT-19はやっと昨年末に発見された感染症であって、その取材をしていないのは当然のこと。だから玉川氏がそんなことを言うはずがないのである。ただこの番組を以前から見ていればよく分かるが、玉川氏は(失礼を承知で言えば)感染症恐怖症であり、健康オタクでもあって、医療関係の取材経験も豊富だ。川本氏の同記事の内容や氏の経歴を見れば、玉川氏のこうした立ち位置を知っていてもおかしくないし、その上であえてこのような書き方をしているのであれば悪意さえ感じてしまう。
ちなみにインフルエンザ予防の心構えについて、玉川氏が毎シーズン、曜日コメンテーターの長嶋一茂氏と掛け合いのような論争をするのは名物にもなっている。もうひとつ脱線すれば玉川氏も川本氏も同じ京都大学の出身で、玉川氏は理系の農学部、川本氏は専門はわからないが教育学部だそうだ。
さてしかし一番の問題は、果たして川本氏が言うように玉川氏の論理が破綻しているのかどうかである。本当にコメントはその場その場の「反射神経のコメント」で一貫性が無いのだろうか。
おもしろいことに、炎上コメントの傾向として、川本氏の主張に賛成する人たちはあまりこのことに触れていない。一方、川本氏を批判する人たちの多くが玉川氏のコメントに矛盾は無いと指摘している。
確かにその通りで、「一気に投入」と言うのは、疫学的対応において出来ることは一気にやらないと上手くいかないと主張しているのであって、一方の「足りなければまた配ればいい」と言うのは、記事に即して言えば「コロナ問題で減収に見舞われた人たちの救済策として」、つまり経済対策の脈略での発言である。
朝日新聞では「ご飯論法」として安倍総理の国会答弁を批判してきたが、川本氏の論理展開はそれ以下のただの詭弁でしか無い。違う問題設定についての発言を同じまな板にのせて批判しているのである。たとえて言えば、「人は誰しも自由に行動する権利がある」と主張する人が「誰であれ人を殺してはならない」と言った時、殺人者も同じ人間なのだから彼の殺人という自由を否定するのは矛盾していると非難するようなものだ。確かにごく一部の人は殺人の自由を肯定するかもしれない。しかしそれは論理の一貫性かどうかの問題では無く思想性の問題である。そして実際のところ、川本氏のこの記事も本質的には思想性、というより政治性によって無理矢理ねじまげた論理で書かれていると考えられるのである。
そのことはすぐに論じるが、その前にしかし、一応考察しておくべき点がある。それは、玉川氏の「足りなければまた配ればいい」論は本当に経済対策への言及と捉えて良いのかという点だ。そしてもしこれが疫学的対応に関するコメントだった場合、それは結局論理の矛盾となるのかどうかである。
玉川氏はこの番組の中で一貫して補償金ないし支援金の即時一括給付を主張している。それは今回のコロナ禍で減収した人への生活保障と言う意味の他に、企業活動に対して補償が無ければ自粛は進まないという考えもある。(なお、この二つの側面、および経済の落ち込みに対する底上げ政策を加えれば三つの側面になるが、これらは一般的になかなか区別して論じられることが無く、そこがひとつの混乱の原因なのだが、今はその議論は置いておく。)
ただし正確を期せば、玉川氏は少なくとも当初は企業の利益への補填は出来ない、個人の生活保障のために迅速に広範囲に給付すべきだとの意見であった。
しかしもし企業活動の自粛=感染拡大阻止という論理で給付金が必要だとなれば、これは疫学的対応の一環とも言える。それではここで「足りなければまた配ればいい」と言ったら戦力の逐次投入論になってしまうのだろうか。ぼくはそうは思わない。話の脈略から言って玉川氏は別に10万円の給付を求めたわけでは無い。というより出し惜しみせず出せるだけ政府はカネを出せ、そのためには赤字国債の発行もやむなしというのがその主張だった。とにかく今可能な限りで一番早く出せるだけの給付をして、それでは当然足りなくなるから第二弾、第三弾でどんどん給付せよと言うのが「足りなければまた配ればいい」というコメントの真意だった。
このことは自粛要請の議論の際でも、出し惜しみせず「一気に投入」するべきという主旨となんら矛盾しないし、ようするに同じ事を言っているのである。もちろん玉川氏とて「一気に投入」と言っても物理的に不可能なことまで求めているのでは無い。
以上のように川本氏の「論理の一貫性の欠如」論はたんなる言いがかり、難癖でしか無い。申し訳ないが小中学生レベルの詭弁と言うしかない。
川本氏は「視聴者が求めているのは」「知識に基づいた確かな助言のはず」と主張する。その点に異論は無いが、それでは「確かな助言」とは一体何なのだろう。ぼくはまさに羽鳥慎一モーニングショーこそ、それを提供してきた番組だと思っている。視聴者の中には田崎史郎氏の出演を快く思わない人もいるようだが、ぼくはそれも含めて多角的・立体的に「知識に基づいた確かな助言」が浮き上がってくるように見える。
だが川本氏は否定的だ。では川本氏にとって「知識に基づいた確かな助言」はどこにあるのか。実は「論座」のサイトには川本氏の次の記事も掲載されている。
これはNHK総合テレビで4月11日に放送された「NHKスペシャル/新型コロナウイルス/瀬戸際の攻防」という番組の視聴評である。ぼくは見ていないが、記事によると厚労省クラスター対策班に密着取材したドキュメンタリーで、政府の専門家会議の押谷仁教授とクラスター班の西浦博教授に焦点を当てた構成だったらしい。
記事の概略は番組自体の評価と言うより、「検査が不十分という批判を受けながら死者が少ない日本の感染の実情を解き明かし」、「危機管理の専門家」の「指摘するのとは違い」「なるべく多く検査して感染者を発見し重症化を防ぐという海外の対策と異なり、クラスターつぶしで重症患者を出さないようにするという日本の対処の独自性」を称賛。
そして「押谷教授は、病院でPCR検査を増やすのは感染者を拡大させる恐れがあるとして否定的だった。同時に、社会経済生活をなるべく維持しながら感染拡大を阻止する道を選択した」と、その判断を高く評価。
「情報番組などのコメンテーターの強い口調での警告や激論が空回りしているのではと思えるように、押谷教授と西浦教授は静かなたたずまいで落ち着いた口ぶり」で、都市封鎖の「中国・武漢や欧米」、情報公開の「韓国とは違う手法で立ち向かって」いると持ち上げる。
最後に今後のNスペには「日本でもお手本にすべきだという声が多いCDC(米疾病対策センター)がありながら、米国で最大の死者を出したのかという検証にも期待」しているのだそうだ。
実に番組自体にも、専門家会議やクラスター対策班に対しても一切の批判は無い。記者独自の視点からの指摘も無い。ただただ日本の対策は素晴らしい、成功だと称賛と賛美のオンパレードだ。何も知らずに読んだらNHKの番宣素材だと勘違いしてしまいそうだ。これが新聞記者の書く番組評なのだろうか。
まあ、それはともかく、つまりこの記事もまた番組評論が目的なのでは無く、本当の狙いは安倍政権のコロナ対策は全面的に正しい、世界のどこよりも素晴らしいと宣伝することにあるのである。こういうのを世間では提灯記事と呼ぶ。
「いま、コロナ問題を取り上げるニュース・情報番組のコメンテーターやキャスターは、政府の施策に対して思い思いの意見を述べるか、政府・自治体に成り代わるかのように『家にいましょう』と呼びかけるか、だ」などとよく書けたものだ。自分が思いっきり政府に成り代わっているではないか。こう言っては何だが、今や安倍総理の提灯持ちなどと揶揄される田崎史郎氏でさえ、ところどころで安倍首相に鋭い突っ込みを入れることがある。たとえそれが演出・芸であったとしてもだ。テクニックの話をするのも場違いだが、そうやって少しの批判を混ぜるから話に重みや信憑性が増すのである。それと比べると川本氏の記事は下の下と言わざるを得ない。
こうやって眺めると川本氏がなぜモーニングショーと玉川氏を批判するのかが分かってくる。川本氏は「これでは安倍政権を批判するためならどんな理屈をつけても構わない(姿勢)」だとして玉川氏を攻めるが、それは実は真逆であって、安倍政権の政策を批判する者を貶めるためなら、どんな理屈をつけてもかまわないというのが川本氏の姿勢なのである。
だが彼には見識が無い。玉川氏の疫学的対策の提言に対して正面から反論する力が無い。だから無理矢理な詭弁を使ってなんとか玉川氏を否定しようとしたのである。それが証拠に、玉川氏が「岡田晴恵・白鴎大教授(感染症学)の主張と同じ立場」と認めつつ、その岡田教授の発言には何も反論しないのだ。押谷氏、西浦氏の手法が全面的に正しいと主張するのなら岡田氏を批判するのが当然だが、川本氏にはそれが出来ない。
新型コロナウイルスの流行はもはや日本の医療を崩壊させる直前にまで来た。誰の目にも政府のクラスター潰しの戦略が失敗したことが明らかになった。なぜなら、クラスター潰し戦略は感染のピークの山を小さくして時間稼ぎをし、その間に体制を整えて医療崩壊を防ぐというものだったのだから。
専門家会議の四日間待機ルールも批判の的になっている。そうしたらなんと専門家会議のメンバーや医師会の会長らが「四日間待てとは言ってない、それは誤解だ」などと逃げ始めた。
そもそも政府の緊急事態宣言後に2週間様子を見るという方針だって、小池都知事に押し切られて早まったが、結果を見れば歴然で、やはり早い自粛要請が必要だったことが明白である。PCR検査の拡充も(少なくも口先だけは)進めていくと政府が言わざるを得ない状況が作られてきた。
つまり、結果論かもしれないが、結局、モーニングショーで岡田教授や玉川コメンテーターが警告し提言してきたことが、どんどん現実になってきているのだ。それが事実である。
川本氏がジャーナリストとして何を賭けているか知らない。しかし、羽鳥慎一氏も玉川徹氏もコロナ騒動が収まった後でどんな批判を受けてもかまわない、だが今言わなければならないと確信することを伝えるのが自分たちの使命だと、覚悟を持って番組を続けている。岡田教授も不休でテレビに出続け、しかも公然と政府の専門家会議メンバーに「生データを出せ」「エビデンスを示せ」と迫っている。彼女の立場からしたら大きな代償を払わざるを得ない行動である。正直言って、ぼくの政治的・思想的立場は彼らの側には無いし、必ずしも彼らの主張が全て正しいとも思わないが、しかしこれだけは確信している。このような覚悟と気迫を持った人々に川本氏の提灯記事が勝てるわけは無い。
表現の自由があるのだから、何を書き、何を主張し、何を批判しても良いだろう。しかし結果が、歴史が最後は判定を下してくれるはずである。
日本の新型コロナウイルス対策について、なぜか国内がまとまらない。本来はこの非常事態にそんなことをやっている場合では無いはずなのに。
首相のリビングでくつろぐ動画投稿とか、有名人の首相擁護要請発言の続発とか、それぞれ問題ではあるが、ここでは問題の核心を抽出して考えてみたい。
問題の核心部分はそんなに多くない。
第一の問題は「自由」を巡る対立。
これには思想的な対立と、政治的対立があり、政治的対立はさらに経済分野と統治分野に分けて考えることが出来る。
これは、感染拡大を防ぐために国民に行動制限を求める動きに対して、リバタリアンや一部のアナキストなどに代表される「自由絶対主義」者が反発している問題。この層の人たちは何より自由であることが優先され、いかなる自由への束縛も否定する。極端に言うと「地球が滅びようと自由にやる」という立場。
これは思想の立脚点の違いなので解決は不能だ。ただ絶対数は少ないと思われる。それでも今回の感染症流行の中では予想以上に声が大きいことも事実。
1-aのような原理主義的反対ではなく、経済的補償が無いと仕事を止められないから行動規制に従うことができないという立場。これは3の「補償」の問題と同一の問題なので、そちらが解決すれば解消する。
蛇足的に付け加えると、国民に対する経済補償を原則的にやらない方針の政権は、それと一体で経済活動の制限に消極的立場であるが、他方で通常は自由を優先することを主張する反自民党勢力が、この問題では逆に補償した上で国民に行動制限させるべきという、一見逆の主張をしている。
今回の感染症流行を政治利用しようとする勢力の問題。
政権は現状では経済活動の制限に消極的である一方、緊急事態に国が国民の権利を強権的に制限できるよう憲法を改正するべきとの姿勢も示している。全くの矛盾した態度で理屈が通らない。
たんに事態を政治的に利用して改憲に繋げようとするだけの策謀であり、現状での緊急性は全く無い。従っていたずらに混乱を引き起こすこのような動きはただちに停止して良いし、停止すべきで、停止するしかない。
自由を巡る問題ではもうひとつ、対立と言うことさえ出来ないが、ウイルス感染拡大予防に無自覚であったり無関心、もしくは関心が薄い、理解が足りなかったりする人々の存在を無視することは出来ない。
こうした層が多いと、対立以前にどのような訴えかけをしても行動制限に結びつかない。
この問題への対処は、残念ながら何らかの方法で周知を徹底するか、強制力を持った取り締まりをするかの二択しかない。
世界の国々の一般的対応として、出来る限りウイルス感染の検査を広げ、検査数を増やしている。WHOもその立場だ。しかし、日本政府だけは検査の絞り込み政策をとり、見かけ上の感染者数を少なく見せる策略では無いかと内外から批判された。
この検査数の問題も二つから三つに分けて考えられる。
ひとつは技術的問題。実際上、検査を広げたくても広げられない技術的問題が存在する。
検査場所、機器・装備、技師の不足、感染者受け入れ施設や医療従事者の不足などである。
ただ、この問題は物理的に必要機材を増産したり、民間事業者を利用したり、発熱外来と軽症者隔離施設を設置したりすることによって、対応することは不可能では無い。
技術的問題は技術的レベルで解決、もしくは納得することの出来る問題のはずだが、実際にはその議論が混沌としている。
それは政府が検査の問題についてほとんど説明をしていないからだ。
政府は表向き検査の制限をしているわけではないと言いつつ、検査が少ない理由にはっきりした説明をしていない。政府が本当のところどのような政治的方針を持っているのか、もしくは技術的限界があるのか、明らかにしない限り混乱は収められない。
なお、当初はオリンピック開催に支障をきたすために隠蔽をはかったのではないか、パニックが起きたり政府批判が激しくなるのを恐れて現在も隠蔽しているのではないかなどと考えている人は多い。
一方でかなり大きな勢力として、あえて検査をするべきでないという論陣が張られている。
これにはまず、検査の体制が脆弱なので検査数が増えると必要な検査まで滞ってしまう、または検査を求める人が殺到して医療現場が対応できなくなるという意見がある。
さらに現在の検査技術では陽性を確実に判定することが出来ず、偽陽性者が病院を圧迫する一方、検査をすり抜けた人がかえって感染を拡大させる可能性が高いとする。
また、そもそも感染者が病院に来て検査をすると医師を含めた院内感染の危険が高まる、感染者が増えると入院が増え医療崩壊するといった本末転倒的(とは言え、医療現場ではリアルに切実な)主張がある。
これらふたつの検査制限論は、技術的対応が可能になれば、解消する問題と言える。
有識者や政治家の中には内外問わず、経済活動を停止すると経済が崩壊するので、行動制限を求めず、感染者を抽出・隔離などせず、症状の重くなった患者のみ治療すれば良いという考え方もある。極度の経済重視論と言える。
この場合は一度感染すると人体に抗体が作られ以後は再感染しないのだから、むしろ社会に感染を蔓延させ集団免疫を作る方が合理的だと主張することが多い。
上記の根拠は、今回流行している新型コロナウイルスは、軽症率が高く、致死率もインフルエンザ並みというところにあるが、実際のところはまだまだ不明な点も多くて異論もある上、回復した患者が再発する事例もあり、感染者にどの程度の免疫がつくのかわからない。
従って現状では根拠薄弱の暴論であると言うしかない。
コロナウイルス流行の結果、経済的に不利益を受け、困窮する人々が増えている。補償の問題は単なる経済対策では無く、感染予防策の要でもある。
しかし、はじめに一点だけ指摘しておくと、補償問題を複雑にしているのはこの辺の政策の曖昧さである。それが補填・補償なのか、景気浮揚・刺激策なのかはっきりしない。 しっかり目的と根拠を示して、何を獲得目標とするのかを明示しなければ、その効果もあがるはずがない。
さて、憲法の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の規定によって、個人の生活は感染症とは関係なく保証されている。ところがこれまでは最低限度の生活が送れない人々の相対的な人数が少なかったため、社会的に無視や差別的言説が一定程度あり、人々の関心が薄かった部分がある。
ところが感染症流行を受けて、最低限度の生活が出来なくなる人の数が急激に増えると考えられ、この層への生活補償の問題が可視化されてくると思われる。
現状では、子育て世帯への一時金支給とその増額などが決まっているが、今後さらに個人への生活保証をどう確保するかが激しい議論になるだろう。
個人への補償よりも面倒な議論が、経済活動の縮小や制限に関わる補償の問題である。現状において国は原則的に補償をしない方針だ。
この場合、二つの問題がある。ひとつは経済全体の落ち込みによる一般的な利益の減少を補填するかどうか。これは個人の生活保証とも関連するので、雇用保険・失業給付制度などを含めた総合的な政策が必要となるのは必然である。
国は固定資産税の減免などに言及し始めている。
感染症予防対策として最も争点となるのは、経済活動自粛要請に対応した補償の問題だ。
論理としてははっきりしている。営業を休止させるなら、その分の損失を補填すべきで、そうでなければ営業を続けざるを得なくなる。これほど明白なことはないのだが、政府の政策は自粛要請はするが補償はしないという矛盾したものになっている。
このことがさらに混乱を引き起こすのは、国が根拠を示さないからである。
補償をしたくないのか、出来ないのか。出来ないのであれば、どのような試算を根拠に出来ないというのか。また、したくないのであれば、それはどのような政治的理由があるのか。
このようなことを政府=総理大臣は全く明らかにしない。それが示されないから誰も納得できない。
明らかにしない理由自体もわからないが、ただ現実にアベノミクスが実は大失敗していて、諸外国並みの補償をすると日本経済が大きく没落してしまうと政府自身が考えている可能性はある。そのため政治責任を追求されないよう何も語らないのかもしれない。
いずれにせよ、この問題の解決は、国民の多数が納得できる補償を行うか、補償が出来ない理由を明らかにした上で政治責任を取って辞任することを表明し、国民に納得してもらうか、どちらかしかないだろう。(もちろん辞任に当たってはこの時期に政治的混乱と空白が出来ないよう、最新の注意を払う必要があるが)