「野戦病院」は左右対立を激化させるか?

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 弁護士の山口真由氏のツイートがネットニュースになっていたので見てみた。
 当該のツイートは次の通り。

「野戦病院」という悲壮な語感が独り歩きしてるが、日医会長の提案は中等症受入施設なのに対し、軽症者を収容せよとの議論、重症者まで含める論もあり、内容様々
入院待機ステーションの拡充を含めて具体で論ずれば建設的な策がある気がする
抽象的なマジックワードは左右の対立をただ先鋭化させうる
2021年8月19日午前11:57

 「具体で論ずれば建設的な策がある」という指摘は全くその通りだと思う。しかし実際には巷間ではそれこそ「内容様々」な「具体」が語られていて、山口氏が出演するテレビ番組でも沢山語られている。
 問題は、ちゃんとした政策決定に繋がる場でそうした議論が俎上に上っていないことだ。これはどうしても為政者の問題であり、我々がいくら主張しても政府・行政にその気が無いならどうにもならない。逆に言うなら、政府・行政は「具体で論」じて「建設的な策」を作る気が無いということになる。
 これはもちろん「抽象的なマジックワード」のせいではないし、もし「抽象的なマジックワード」によって政府・行政が「具体で論」じることが出来ないなら、そんな無力な政治は即刻退場していただきたい。
 なお、ただし酸素ステーション自体は何の解決にもならないというのは、その発案者も言っていることなので一言付け加えておく。

 さて、山口氏は「「野戦病院」という悲壮な語感が独り歩きしてる」、「抽象的なマジックワードは左右の対立をただ先鋭化させうる」と主張する。
 しかし今この医療現場の状況が「悲壮」で無くてなんであろう。
 現実はまさに大災害の渦中であり、助かるはずの命が次々に失われ、医療関係者、救命関係者は不眠不休で戦っているのに、完全なる負け戦である。
 リベラルの中には、このコロナ災害を戦争にたとえることを拒否する人もいるが、これはまさに戦争状態だと言うしかない。そのまさに言葉通りの最前線は悲壮であり、「野戦病院」はあまりにも適切な表現なのである。繰り返す。これは「マジックワード」ではなく現実なのだ。
 にもかかわらず、人々の意識はむしろ緩み、人流もなかなか減らない。人々に現場の悲壮感が伝わっていないのである。山口氏も頻繁に出演するテレビ・マスコミはもっともっと悲壮感を伝える努力をすべきだと思うが、山口氏の主張はそれを逆に抑制しようとするものだ。

 それでは果たして「野戦病院」と言う言葉は「左右の対立を」「先鋭化」させているのか。
 実は山口氏も「させうる」と微妙に表現しているように、この言葉は現状では別に対立軸でも何でも無い。というより、むしろこの言葉を対立軸にしようとしている層が、これで煽ろうとしているのでは無いかという疑惑さえ感じる。
 山口氏は「左右の対立」と言うが、コロナ対策を巡る議論に果たして左右の対立は存在しているのだろうか。
 たとえば、リベラルの論客として知られる青木理氏と玉川徹氏は、これまでで言えば「左」側でかなり近しい意見を持っているように見えた。しかしこのコロナ禍にあって、法整備をしてでも個人の行動抑制をするべきとする玉川氏に対し、青木氏は個人の自由は制約されてはならないという原則論に立って反論した。
 これはリベラルか保守かとかイデオロギーの問題では無く、究極の選択を迫られた時に社会全体と各個人のどちらの利益を優先するのか、また命と経済とどちらが重要なのかという、いわば根底的価値観の対立であり、確かにイデオロギーの問題であるかもしれないが、しかしそれは従来の右か左かという区分とは全く違う立場性=陣の再編成を生んだと言える。
 これはいわゆる旧来の「左」の中だけの話では無く、おそらく「右」陣営の内部においても起こっている現象だと思われる。与党内部からの批判の噴出はそれを物語っているのかもしれない。それは更に言えば官邸と官僚の間でさえ起こった形跡がある。

 それでは山口氏は「野戦病院」批判で何を訴え、何をしたいのか。
 それがまさに、人流抑制へのカウンターである。
 右とか左とかでは無く、これは人命と経済の関係において、経済を人命の上位に置く「イデオロギー」によるものだ。ぼくの知り合いで「おカネが無いのは命が無いのと同じ」という言葉を座右の銘にしている人がいたが、まさに経済無くして人命無しの思想である。
 おそらくそう考える人は、残念ながら「左」側にもいるだろう。「右」側でもそれは違うと言う人がいると思う。そもそも純粋右翼なら経済による人間の支配を良しとしないだろう。

 山口氏がどういう回路から経済を人命の上に置くのかは知らない。どこぞの輩のように、自分に関係ない人の命は猫より下とか思っているわけでは無いと思うが、経済が回らないと人々が飢えて死ぬと思っているのだとしたら、あまりにも単純である。
 現実に今日、地球上で生きている人が生きている以上、「経済が回る」かどうかに関わらず、人々は生きられる。つまりそれだけのリソースが現に存在しているから、人々が生きているのだ。それは経済が回らなくても存在するし、生産もされる。ただ「経済」という仕組みが歪んでいて、経済的権益を持つ層の思い通りにならないと、中々うまく機能しないだけである。
 そしてそのような近代に生まれて育った我々は、そうした「経済」こそが唯一人類を支えるシステムだと教え込まれてきたので、経済は「回る」もので、「回す」もので、それが無かったら人類は滅亡すると思い込んでいる。
 しかしそれはただの思い込みだと言うことは、冷静に現実の「モノ」を観察すればすぐわかるはずだ。それが見えないのは強力な「魔法」というか「呪い」にかけられているからである―近代という名の。

 それでも多くの人は魔法にかけられていて、なお直感的にカネより命が大事と言うことに気がついている。これはヒトの本能なのかもしれない。
 「野戦病院」の悲壮感を自分のものと受け止め、この悲惨な戦争=災害を力を合わせて戦い抜くことしか、我々に残された手段は無い。

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