靖国問題の論点をズラす文章の危険性

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 ネットニュースの見出しに次のようなものがあった。

“「靖国報道」に埋め尽くされてはいないか…日本のワクチン対応「不都合な真実」”
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/86301

 終戦の日の翌日であり、興味を持って読んだのだが… あまりのひどさに唖然とした。なんだこれは。

 まあ、いつもの「現代ビジネス」の髙橋洋一(嘉悦大学教授 経済学者)のエッセイだから期待はしてないが、いくらなんでも無内容すぎる。
 これはまず編集者の責任だ。個人的な書籍ならともかく、雑誌編集としては落第点だろう。
 一番に見出しが間違ってる。この文章は靖国問題と全然関係ない。驚くべき事に本当に全く関係ない。冒頭に一言触れられているだけだ。ぼくが編集ならこの冒頭部分をカットしてしまうだろう。
 それに日本語の言い回しとして意味不明な箇所が散見される。いくら筆者が書いたからと言っても、この辺を直してやるのが編集者の仕事だ。そもともわざと分からなくしているのか。こんなところを理解しようとして何度も読んでいると悲しくなる。

 とは言え、ぼくもこの見出しに釣られて読んでしまったわけで、「靖国」の部分にこだわらざるを得ない。
 ようするに高橋の言いたいのは、マスコミは政治家の靖国参拝を報道するなということだけだ。おそらく政治ニュースを扱う全てのマスコミ各社が、濃淡はあれこの問題を報道しないことは無いわけで、それには相応の理由がある。その点を考察もしないで、ただ扱うなと言うだけでは幼稚すぎる。これだけのスペースをもらっているのだから、丸々この問題の考察に当てることだって可能なのだ。ちなみに見出しは「「靖国報道」に埋め尽くされてはいないか」だが、今年はむしろ靖国参拝報道は少ないし、高橋も別にそんなことは書いていない。誇大広告!

 さて、高橋は「参拝という「心の問題」がなぜ報道する意味があるのかどうか、はっきり言って筆者にはわからない」と書くが(この一文も日本語としてかなりおかしいが、いちいちそれを言ってても進まないので不問にしておこう)、本当に分からないのか、皮肉を言ってるのか、それこそ分からない。
 しかし、ちょっとだけ核心に触れたことも言う。高橋が知っている話として、家族が戦死したある閣僚経験者がマスコミに騒がれないよう記者が張り込んでいない日に密かに参拝したエピソードを紹介している。まさにその通りで、そもそも宗教儀礼は他者に見せるためのものではなく、高橋が言うように自身の「心の問題」であり、わざわざ騒がれる日に派手に目立つ格好で行く必要は無い。その閣僚経験者のあり方こそ本質的な宗教行動だろう。
 逆に言えば、なぜ政治家が「みんなで」派手派手しく終戦の日に参拝しようとするのか。つまりそれは「心の問題」ではなく政治行動だからである。更に言えば、だからマスコミは報道するのである。高橋にはせめてそこまで考察して欲しかった。
 高橋はもう一言、「政治家の靖国参拝は、マスコミが報道しなければ「問題」という論点にはならない。仮に「問題」になりうるとすれば外交的な意味」、「韓国と中国だけが取り立てて文句を言うので、マスコミはある意味で、韓国と中国のために取材しているようなもの」と付け加えて、それでこの話題を終えてしまう。
 本当に問題視しているのは韓国と中国だけなのか(北朝鮮を抜いたのは別に意図的では無いんだろうが)とか、ではなぜ韓国と中国は特に厳しくこの問題を追及するのかとか、この一点でも相当書くべき事はあるだろうに、これではただ飲み屋でくだまいてるオッサンの愚痴でしかない。
 まあそれは置いておいても、問題なのは前半だ。なぜマスコミが報道しなければ「「問題」という論点にはならない」のか。
 これはただ高橋の頭の中にしか存在しない<空想上の日本>の話でしかない。いったい戦後どれほど国内において反靖国運動があったか、少なくともインテリである高橋が歴史的事実として知らないわけが無い。と言うよりリアルタイムでいくらでもニュースに触れてきたはずだ。きっと彼の中では現実と空想の世界が逆転しているのだろう。

 そもそも靖国問題は一義的に日本国民、日本国内の問題である。初めに中韓が問題にしたわけでは無い。それを言うならむしろ最初は米国だと言っても良いが。
 靖国神社は別に伝統的な宗教施設では無い。明治政権下で日本がヨーロッパの絶対主義を導入するに際し、欧州の文化基盤であるキリスト一神教を密輸入するため、人工的に作り上げたのが、皇国史観と国家神道であった。これはそれまでの日本の伝統や宗教とは全く違うものだった。当時の民衆が神仏分離、廃仏毀釈に非常に戸惑い反発したことはよく知られている。
 この過程で中央集権的軍事国家建設のために義務教育が始められたりしたのだが、靖国神社もそれを強力に補完するための施設として作られたものだ。だから戦前は靖国神社は宗教施設では無く国家施設と考えられていた。
 しかし敗戦と米軍による支配統治という状況の大転換で、靖国は表面上一般の宗教団体として生き残る道へと進む。本来、国家神道は「宗教」ではなく統治システムの一環だったが、ここで宗教ということになり、靖国神社も「信仰の自由」の対象となった。だから純粋な意味ではこれを信仰するのに問題は無い。
 だが問題は国家主義者達が本心としてはこれを不服として、明治体制=大日本帝国の復興を目指していることにある。彼等はだから国家神道と皇国史観も復活させようとしているし、その運動の一環として、政治行動としての靖国参拝を強行しているのである。
 外国が反対しようがしまいが、それはあくまで二義的なことだ。本質的な問題は、われわれ日本に生きる民衆が、国家主義的な統制国家の復活を許すのかどうか、そこなのである。
 何かマスコミもこうした問題を忘れて、日の丸、君が代問題や靖国問題を外交問題のように扱うようになってしまったが、それに惑わされているわけにはいかない。これこそ日本の民主主義の存立がかかった、自分自身にとって最重要の問題なのだ。

 高橋の文章はこうした問題の本質を人々に忘れさせようとするバイアスを持っており(とは言え、彼の知的レベルで本当に意図的にそこまで考えられているかどうか分からないが)、その意味では危険でさえある。そして、あえてその部分を脈略無く強調する「現代ビジネス」の編集方針も同様だと言えよう。

 ただ、このエッセイ自体はほぼ意味が無い。このあとに続く本文では大きなグラフを沢山使って結局は、日本では新型コロナによる死者は少ない、ワクチン摂取率は急激に上がっている、政府の関連予算は沢山余っているのでそれを使えば医療逼迫など解消する、あとはワクチンパスポートを導入・活用すれば良い、というどこにでも転がっている話をしているだけだ。
 こんなに読みにくいグラフを過剰なくらい使っているのに、それを細かく分析することすらしない。まあエッセイなんだから良いのだが、それならこんな論文にしか使わないようなグラフも不要だろう。

 一呼吸置いて考えれば、もちろんこんな文章に引っかけられてしまう方が悪いのかもしれないと反省もする。
 せめて、もう少しちゃんとした日本語にしてもらうと、ちょっとは苦痛も減るのだけれどね。

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